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​八十路日記

   しおり

 人生100年の時、コロナ自粛生活を(盾)にとって私の(ブラジル)60年が紐説かれた・今の時代には考えられない子供8人。ランプ生活・心安らむ小川のせせらぎ・人との出会い・楽しかったこと・嬉しかった事・病に伏した事・健康になった事・80歳の誕生日を迎えた・健康体に感謝しながら[幸子さんの日記]に一枚の(しおり)を挟む。

 後の人生は・おまけ・おまけの人生・昭和・平成・令和・と生きてきた・(大和撫子)これが女のサガなのだ!!・後のおまけの人生・近代化・ブラジル風に夢を持ち・健康に気を付けて。おまけの人生を羽ばたいていきます。幸子  2022/03/04

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 2024年12月3日ブラジル日報(読者の声)に掲載された記事より。

 
朝顔とオニブス サンパウロ市 森田幸子

​ 毎朝5時から、我が家の前の道をオニブスが通る。メトロ・ビラソニアまで7分で着く。
オニブスを待つ人々が我が家の垣根に咲く朝顔を眺めながらオニブスを待つ。朝は15分おきにオニブスが通る、満員のオニブス、交通の便が良い場所なので勤務者はこのオニブスを待つ。
朝6時、開きかけた朝顔は、ゆっくり、ゆっくり咲き開いて行く。道行く人々、オニブスを待つ人々が皆朝顔の花を見上げる。紫の朝顔、毎日何百と咲き乱れて散って行く。
 
 かれこれ25年ーーー私は年3回位、朝顔の«散髪«をする。それでも見る見る蔦を這わして垣根に這い登り紫の花を咲かせる。
 何十年間も道行く人々を楽しませてくれた。朝、前の日に咲いた何百と咲いた花を葉を掃き寄せながら、又何百と咲く紫色、眼が冴えるような朝顔。オニブスを待つ人々、微笑みながら、私に「美しいですね!」と声を掛けて下さる。
​ 暑い日がやって来る。オニブスを待つ人々、道行く人々に爽やかな朝を届かせ、涼しさを与えてくれる朝顔。
 今日も誇らしく青空に向けて咲く朝顔、人々の癒しになって呉れて居る事だろう!
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  3月12日(土曜日)晴天、
 家族で昼食のレストランテの招待を受けた。私は今まで何回も、招待を受けたけど、大勢の場は余り好きでないので(カイピーラ)いつも(留守番)をしていた。この度、私の八十歳の誕生日祝いでもあるので、私は、清水寺の舞台から飛び降りた気持ちで車に乗った。
 雨上がりの晴天、気も心も爽快で、こんな気持ちの良い日はなかった。山道を通りこんな所に、レストランテがあるのかと?、、、思う位の山道、、、12時過ぎていた。
 入口でカルトンをもらい、素晴らしいレストランテ、自然を活かし、池があり、池の真中に大きな客席があり、生バンドが音楽を流してくれる。小鳥がさえずり、花が一杯植えてあって、私達家族は、池の近くに席を取った。私は久しぶりの自然の清々しい別世界に入って行く錯覚に陥った。
 マラクジャのスーコを飲みながら、私は思い出にひたり、頭の中は瞑想にクルクル回る、池の縁にはまっ黄色い花が咲いていた。池の水に写る、私はこの自然界の美しさ、バンドの音楽の調べにうっとり、、、その時大きな黄色い蝶が池の上に舞い上がっていた。珍しいあんなまっ黄色な蝶が、、、私はうっとり 、、、音楽を聞きながら益々瞑想に入ってしまう、家族が側に居る事すら忘れていた。
 その時何処からか、真白い大きな蝶が現れて、黄色い蝶の後を追う。二匹の蝶(黄色)と(白)がヒラリ、ヒラリ、池の上を舞う姿「幸子さんようこそ、、、」「お誕生日おめでとう」の言葉をかけて山の中に姿を消した。その時、私は思った、あの(白い)蝶は、満男さんでわなかったか?(黄色い)蝶は私だったのだ、、、音楽のメロディに揺られ二匹の蝶(黄色)と(白)がわずか二分間の間だったが。
 私に思いでを思い出し又未来の私を想像し、蝶が舞い、トンボが飛びかい、生バンドに、身体を揺られ、カップルがダンスする姿を眺めながら、私もこんな素晴らしい境遇にさせて頂いたのか?、、、満男さんが大好きだった(シューバ・デ・オーロ)蘭の満開の季節に私(黄色い蝶)の後を追ってきた(白い蝶)はマリードでわなかったか?、、、あの二分間の蝶の舞いは、、、12年ぶりのマリードのとの再開であり、喜こんでくれている姿だったのだろう、、、蝶の二分間の舞い、私と貴方の初めての舞いでした。200人以上のお客様の前で、貴方と私は初めて蝶の舞いを二人で踊ったのです。
 80歳の誕生祝い、家族と共に、貴婦人の境涯になって、不思議な二分間でした。その後、蝶が現れるかと待ったけど帰るまで二度と蝶蝶は姿を見せる事はなかった。、、、エンブー市の山の中のレストランテでの(誕生祝い)でした。

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  コロナ儚い命
 近頃は雨が良く降ります、月下美人の花が蕾を膨らませた。今夜咲く花だ! 誰かに見てもらいたい。私は、ポキ、ポキ、らくだの首のような蕾を折りコッケイロの葉で包み七つの蕾を抱えてオニブスに乗った。
 終点から乗るので一番前の席に座れる。ボンフィーリヨが過ぎたとき一人の紳士が私の横に頭を下げて座られた、年は75才ぐらい、私の抱えている花を見て「ダーマ・デ・ノイテ」ですね、香りの良い花ですね、少し日本語も話されるブラジル人。「妻がコロナで亡くなって死亡届を取りに行きます、コロナにかかって六日目に亡くなりました」あっと言う間だったそうです、「明日、七日のミサが教会であります、奥さんは日本人で名前は(ナオミ、こだま、モラール)、一人で寂しくコロナで亡くなられた。病院に行き六日目だったそうです。
 考えられない程の悲しみ、私の胸は痛んだ、こんなに命は短く走り去るのか?……、又も今生きている事に感謝しなければ……人の命は生まれた時に決まっていると言うけれど…儚い、悲しみ……
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   病気-蘇生

 私は日本への出稼ぎの講習を受けて、日本に働きに行く準備をしていた。(55号楽書倶楽部、大風呂式) ところが大雨と突風と竜巻で物置小屋が吹っ飛んでしまった。そこで物置小屋を立てるための材料を山に取りに行っていた時に滑り落ちて尻持ちをついて、それが私の病気の始まりでした。
 私は八人子供を産みましたが、健康体で、ツワリ、産後、も普通で風邪も引きませんでした。産後五日目から、畑に出ており病気になる暇がなかったのです。日本行を決意してから(事故があってから)町に出て来て、隣に住んでいる婦人が、ポストデサウーデにいくから貴女もカルトンを作りに行かないか?誘われて行きました。その時肉切れしていた所がザクロのように(筋腫のようになっていた)そうです、ガンになるから直ぐに切断、直ぐに手術、七センチの(筋腫)を切り取ったそうです。切り取った後、マンジュウの皮を固めるように、肉のない所を集め縫ったそうです。少し重いものを持てばはじける、場所が場所ですから大変な思いでした。医者に行く度に、又はじける、私は医者に行く事を止めた。
 二年位歩けない状態。その年、お友達がガンで八人の方が亡くなられた。私もガンの恐怖で自分も長くはないな…と思いあの当時健康になりたい思いで、ナプキンの縁かがりを始めたのです。一針一針編むレース編みのナプキン、私を健康にさせてくれる思いで……二年振りでオニブスに乗った(主人が主張中)クリニカ病院(診察日)その時(座布団)を持ってオニブスの高台の窓口に座った、しばらくぶりの外の風に当たりながら生きている喜びが胸をついだ。
 ハポーゾ・タバーレスの入り口、赤信号で前に進まない。私の窓口にゴヤーバの白い花の小枝が私の手に握手してくれた。ふっと見上げると、真白いゴヤーバの花、何百と咲く白い花が、私に「幸子さん良かったね!!貴女は蘇生したのですよ!生きるんですよ!」何百と咲く白い花が頬笑んでくれた。
 白いゴヤーバの花達が一斉に、私に喜びの、エールを送ってくれた、私は白い花までが私にエールを送ってくれる。(私は蘇生したのだ)泣けて泣けてどうにもならない。隣に座っていた男性が心配してコブラドールを呼んだ、「どうしたんですか?」私は泣けて泣けて声を出して泣いた、(私は生きたのだ!)自然のゴヤーバの小さな白い花達の間でも喜んでくれる、私は蘇生したのだ、よみがえったのだ、あの声を出して泣いたオニブスの中、私にしか判らない生きている喜び、感謝だった。
 それから(診察日)アイルトンセーナのお葬式、医者が来なくて「カンセイラ」次の診察日、医者の公通事故で「カンセイラ」そんな事で医者に診察されないのが幸いで、お陰様で今日まで生きている。あの時次ぎ次ぎと亡くなって行かれたお友達…私には生きる使命があったのだ。こうして死を見た私、この年になって(八十)にこうして生きた文章が綴れること本当に感謝です。1人のお友達が(貧乏の恥じの事を書くな)と注意された。死の境を通ったものは、プライドなんか在りません、生きて居る事に感謝です、あのオニブスの中で声を出して泣いたあの日、白いゴヤーバの花が咲く頃思い出す、あの日の事を……、

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  水の音

 私は昨日友達のお母さんの13回忌だと知り仏前をお供えに行った。玄関に入ると、チロチロチロと水の音、サーラの片隅に石で作った二重の滝から、チロチロチロと流れる水の音、私は「ウワ!懐かしいです田舎の谷間のセセラギを思い出します、清々しいですね」その言葉を憶えて下さっていたのでしょうか……クリスマスの贈り物に、重たい二重で出来た石の滝を頂いた。
​ サーラの片隅で、チロ、チロ、チロ、何とも言えない静けさと、清々しさ私はうっとりする。水の音を聞きながら、昔を思い出し忘れかけた文章が書けるようになった。認知症の予防にもなる、大きなプレゼントでした。水の音、これ程心を動かしてくれるかと……老人の生甲斐です。老人の方達、水の音を聞いて下さい、勇気が出ます、希望が生まれます。あの滝の音思い浮かべて下さい。そして私達が乗って来た移民船と広大なあの海を……

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  生死を彷徨う
 安あがりの女房で、夫は知人に話していたそうです。馬年で馬のように良く働く、病気は一度もしない、畑が良いのと、種がインポルタード、蒔いた種は必ず、芽を出す、乳が良く出るのでお金は掛からない、ブタのように、次ぎ次ぎに生まれる、本当に産気付いたら病院に行く、五日後には畑に出て行く「その赤ん坊は誰の子供?」「私の子供です」「一度もお腹の大きいのを見たことないわ!」お客さん「今日は」家の中から、ツクツクボウシのように、坊主頭が次ぎ次ぎと顔を出す、丸で託児所のように、子供が列になってオニブスに乗る「奥さん託児所の先生ですか?」コブラドールの声。
 こんなのどかな生活から、一転(私は山の中の事故で滑り転んで尻持ちを付いた、下に木株があってそれに当たり酷い怪我をした。(楽書倶楽部、55号)それからが私の病気との戦いでした。行った事もない医者に、見える所ではないので、エスペシャル・クリニカに廻された。精密検査、ガンの検査、凄いトランヂットでクリニカの(診察日)アイルトン・セーナのお葬式の日、医者が来なくて帰って来た。
 それから半年クリニかの(診察日)待っても待っても名前呼んでもらえない、医者が交通事故で(診察しなので帰ってきた)それから4ヶ月、足の太股に大きな(ビワの実)位のコブが出来た(動脈)痛くも痒くもない、ガンの疑いがある。USPで調べる、私が手術台に上がったが、待つ事40分主任の医者が交通事故、4人の大学生は主任の医者が来ないので(キャンセル)私の(診察日)には、必ず医者が交通事故、いつも医者通い、ガンと聞くだけで気が弱ってしまう。
 その間私の友達も次、次とガンで亡くなって行かれる、今度は、自分の番かと、この年8人の友達が天国へ行かれた。USPで精密検査、主人が車で送ってくれた、その時一晩入院だったので、電話のコインだけ持って行った、主人は心配そうな顔で「迎えにいくから電話してくれと」電話のコインを渡された。
 手術は4時の予定だった。待っても、待っても医者が来ない、手術取り止めです。又医者が交通事故で、私はオニブス代が無いので、ピポカ売りのバン家でコインをお金に換えてもらって2ツのオニブスに乗り換え、帰って来たが7時も過ぎていて暗くなっていた。私は家のベルを押した。主人が顔を出したけどナカナカ出て来ない。又押した、出て来ない。私は腹が立ってガンガン押した。おそるおそる主人が出て来て「幸子の幽霊かと思った」と……今頃病院に居るのにどうして……人生は色々な事がある、それを乗り越えなければ生きて行けないのだ……、私には何もない、生きて居る感謝だけです、プライドなんか1ツもない、だからお墓売りまでも誇りを持ってさせて頂いた。可笑しな私です。何でもパッションです、人生パッションがあれば勇気が出る、元気が出る文句を言う暇もないのです、今パッションに生きております。

  移りし三十年    2022.05.10 
 早いものでここに移転してより30年も過ぎた。下のサロンには、ピンポン台や玉付台等を据え付け、日曜日事にピンポン大会、玉付き遊びと多くの青年男女の集まりがあった、誕生日祝いには、必ず我が家でシュラスコをし賑やかな男女の集まりをしたものだった。

 それが時代も変わり……今では物置小屋に変わってしまった、植えたイペーの木や、リシアは大きくなり(マタガオ)になってしまった……あの当時このバイホでは一番綺麗な家だったのがいまでは古びた家になってしまった。

 私が野菜を植えていた隣の土地には、3階建てのアパートが建ち、近くのユーカリ林が伐り倒されて、今では22階建てのアパートがが建った、あっちも、こっちもアパートだらけになってしまった。

 家の前がオニブスのポントで、ポルトンで待てば、オニブスが停まる。メトロ・モルンビーまで7分で着く、こんな便利な場所になり毎日のように(デシャバルバーサン)に。

 私はある友達が(毎日同じ時間にオニブスに乗り、決まった時間に帰宅していた)のを見て思った、これ程毎日出歩いて……今から思えば毎日オニブスに乗る、あれが彼女のテラピアだったのだ。

 今私もオニブスに乗る(用事も無いのに)約1時間オニブスの中で、外の風景を眺め、ドンドン変わって行く町を見ながら、頭は瞑想、空想、1時間が過ぎる、今、私は自由の身で「どこに行きます」「何時に帰ります」と伝える必要もない、鳥のように好きな所に飛んで行ける、
 
 毎日出かけられた友人、老人クラブの副会長、詩吟の先生が。3年程前リベルダーデで具合が悪くなり病院に行かれた、それから又中風が出て老人介護施設に入られた。一度お見舞いに伺った時。今まで見た事もない素晴らしい笑顔が忘れられない。1年以上前に亡く成られたと聞く。

 私達も八十も過ぎれば、明日の命は誰にも判らないのだ……ブラジルは良いとこ、年寄りの交通カルトンがあれば、メトロ、オニブス無料、今時、日本人は余り見られない、皆お金持ちでオニブス、メトロに乗る人は余り見られない。時代の流れとは……(長い物に巻かれろ)子供のお世話に成る身……時代も変わった、

 私も変わった、老人施設を夢見て、アチラ、コチラと探して歩いた。だが私に就いて来る子供はいない。私(おばあちゃん)一人では住まわしてくれない。田舎も今では泥棒の巣、(一人では住まれない)……私の夢は百八十度回転……ならばこの家を老人の集まりの場に、後ろの、マタガオを切り倒し、物置小屋を修理し、もう一軒建増し、私の夢は違う方向に百ハ十度回転……

 私が生きて居る間に老人施設が完成するだろうか?……老人の憩いの場を提供しますので、お待ち下さい。将棋をしたり、麻雀をしたり、トランプをしたり、カラオケを歌い、泊まりたい人は泊まり、帰りたい人は帰る、近、近、我が家は、老人の憩いの場になります。こぞってお集まり下さい。利用者は無料、食事付き、こんな素晴らしい、老人施設が出来る。私の夢です。お待ち下さい、その日まで、、、5月10日。幸子
   オルゴール     2022/05/19
 私達八人兄弟、四男四女、清兄さんは、私より四つ上で上から六人目、それはそれは、美男子で俳優の葉山良二にそっくりで、葉山良二の映画を観ていると、兄ではないかと思う位似ていた。
 生まれつき体が弱かったか知らないが兄だけ母は(カン油)で丸めた薬か栄養剤か知らないが飲まされていた。朝も生タマゴを熱いご飯にかけて母は兄に特別栄養を食べさせていたのを思い出す。一年生から、九年生まで学校の級長を勤め、野球部では(キャッチャー)をしていた、それで勉強している姿は見た事もない。集落で一年一度の芸能祭には(白いパンツに黒のごまいりパンツ)をはいて(白地に、黒くノミの糞付けて、ああいやらしい、私のパンツ)二回歌い年寄りから大喝采でした。
 田舎であの時代、私立高等学校に通う青年はなかった、二十五キロ離れた(西脇高等学校)集落(100戸)でも初めての高等学校生徒だった。詰め襟の制服に帽子、それは、それはイケメンだった。一台のバス一日三回位しか通らないバスで通学……

 西脇高等学校を卒業されて神戸の(川崎重工)に就職された。その時、4畳半の、寄宿生活、田舎から出て行かれたのです。お盆、お正月に帰られる時私達や、お母さんに珍しい物、私には水色のカーデガン、兄が帰って来る時それが何よりの楽しみだった。お盆休みには従兄弟達とピンポンや、将棋、みんな兄が教えてくれた。冬休みには従兄弟達が多いのでトランプ遊びに、カルタ遊び楽しい思い出です。四畳半の部屋で九州から来られた青年と二人部屋の生活をされていましたが、その青年が(肺結核)に罹り故郷へ帰られた。その時に兄に移って(肺結核)を患われた。その頃、母が、暑い夏だったが(急に顔面神経痛)を患われた。遠い氷上群の(針)に通われたけど完治する事なく歪んだままだった。後から判った事だけど、その時に兄の(結核入所)の知らせを知らされた時だったのではないかと思う。母は私には知らせ無かった、心配のあまり(顔面神経痛)になられたのだ……

 それを知ったのは、私がブラジル行きの通知を受けた時で兄さんにお別れの挨拶に行きたいと、三田療養所の住所を聞き兄さんを訪ねて行った。福知山線、三田療養所、三田行きのバスに乗り、くねくねとした登り坂の頂上に療養所があった。秋でカエデの木の葉が紅く色づいていた。とても静かな所、清々しい空気……私は兄に面会したいと受け付けに話した。11時過ぎていた、昼食後は検診がありますので少しの時間だけですよ!兄の部屋に連れて行って下さった。

 突然のお見舞い、兄は吃驚しておられた、大変喜ばれた。私がブラジルに行く事すら知ら無かったようです。その時に兄さんが精を込めて作ったオルゴールを下さった。美しく出来上がっている(オルゴール)菱形の木彫り茶色の25センチ位の大きさで曲は(埴生の宿)私が、12さいの時観た(ビルマの竪琴)の映画の……こんな立派なオルゴール、どこを探しても見つからない、それは、それは立派、早く元気になりたい、祈りを込めて作られたオルゴール……

 このオルゴールは淋しい夜の真っ暗な谷間で、神秘なまでも(埴生の宿の曲)が小川のセセラギと共に、毎夜私を慰めてくれました。子供達の子守歌として、毎夜、毎夜ランプの灯と共に私達を癒してくれました。あのオルゴールが私達家族を見守ってくれたのです。結核(肺病)なぜ母は私に知らせ無かったか?あの当時(肺病)は(治らない病気)とされていた。母の弟(19サイ)妹(17サイ)も若くして亡く成られている(お金持ちの病気)とされていた。だからどれ程、お母さんは兄の病気を心配された事と思う。だから私には知らせなかったのだろう……

 兄は私の神戸出港には見送り来て下さりあの当時カメラ(キャノン)一番上等のカメラで、最後の写真を友達や家族と共に写して下さった。五色のテープで別れを告げた。その後横浜港までわざわざ焼き増しをした写真を渡しに、夜行列車で又見送りに来て下さった。私はびっくりした。沢山の写真とカメラも……その時、ハーモニカも贈ってくださった。何処までも、私を思い(妹との絆)私は船の甲板で(埴生の宿)の曲を心行くまでハーモニカを吹いた。

 谷間でもハーモニカを吹けば元気が出た……今又、あのように(幸子さんの日記)兄が作って下さり、日本に居る子供達の(三人)の親代わりとしてお世話になっております。今の世の中、親子でも絆が薄らいている日本、私達兄弟の絆は薄れる事は無いのです。あの宝物のオルゴール、淋しい夜を癒してくれた、子供達の子守唄として、夜、夜オルゴールの唄はあの谷間に流れたのです。そして私達家族を見守ってくれたのです。かけがえのない、真心の贈り物オルゴール……この曲と共に、身寄りの無い私は強く、強く生きて来たと思います。オルゴール……ありがとう!!

  ★残念ながらあのオルゴールは田舎の家が突風で壊された時に何処に行ったか分らなくなり
   ました。

        終活   2022/05/25

 私は、昨日お友達の(エズマソン)に同行させて頂いた。昔し勤めていた会社です(メモリアル、パルケ、パウリスタ)(お墓)すっかり新しく造り直されて近代化されていました、まるで病院並みで昔の(水槽)は無くなっていた。働く事務員達も皆さん若い人達で私の知って居る人は誰も居られなかった。時代の流れです。多くの知人がここに眠むって居られる、私は一人心で祈りを捧げ乍ら、お墓を一周りした。私もここでお世話に成るのだ……と思い乍。

 

 人間は明日の命は誰にも判らない。私は以前(同級生からのプレゼント)(金の首かざり)をして曾孫を抱いた時、引っぱって切れた。それを3年振りに修理して頂き、今日、受け取ることが出来た。日本のお世話になって居る方に、私の作った(レース編みのナプキン、とカフェ)を日本に送り届け、少しずつ自分の終活の整理にかかっています。

 

 整理しているお手紙の中、私の人生を大きく変えて下さった、紳士のお手紙を読み返し乍……まあ、何と美しい……人生には、こんな美しい出会いもあったものかと……今だに時々美しい日本の風景をビデオで撮影して送って下さいます。まあーなんと幸な日々自粛生活だった事だろう、私の人生が、胸に支えていた何かが一度に文章で綴れたのです。笑う人もあるだろう、感動して下さる人もあるだろう。ブラジルで兄さん、姉さんが出来たのです。心強い毎日です。石田様、前園様、有り難うございました。私の人生を大きく変えて下さった紳士、ブラジルに来られた時には、私にぜひ一報下さい。

 この曲(星影のワルツ)……を一緒に歌える日を夢見ております。石田様、長い間私の人生をサイトに入れて下さり感無量です。有り難うございました。(この星影のワルツ)を日本に居られる紳士に贈ります。「遠くで、祈ろう、幸せを!!」「今夜も星が降るそうだ!!」

  父の日  2022/08/14

 コロナ自粛生活になり、老人達は淋しい思いだと思います。 この度、九十九才のお爺さんから「わが家の蘭が咲きました見に来てください、お待ちしております」こんなメールを頂いた。老人は外出も出来ない、訪問客も無い、友達は皆さん年配で余り出歩きすることがない。

 私は何処へでも歩いて行ける、メトロにも乗れる、この老人にお出会いするのも最後かも知れないと思いながら、大きな蘭の花を抱えてメトロに乗った。遠い所でオニブスのポントも変わり、人に聞き聞きやっと着いた。

 玄関には満開の蘭が優しい香りを漂よわせながら私を迎えてくれた。玄関の藤棚には藤の花がしなやかに挨拶を交わしてくれた。懐かしい日本の匂い……お茶を出して頂き乍ら……実家に帰って来たような……父の思いで……父と二重写しになり、父と娘に……

 あれ程寒かった日が暖かい晴天になり、老人イワク「貴女の行いが良いから、暖かい日になりました」と喜んでくださいました。僅か二時間余りの父娘に……父の日でした。おいとまする時私の記事が載っている新聞を大事にしまって(2020年9月15日)「楽書倶楽部誌を読む」と私の記事が載っている新聞と4枚の新聞を持たせて下さいました。

 やはり、別れのアブラッサ、痩せた肩、ジーンと来るものがありました。いついつまでもお元気で……ブラジルのお父さん……60年振りの里帰りでした。
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  思い出の赤道祭  2022.9.10
 

 私は1962年2月2日、神戸港を後に、多くの見送りを受けて五色のテープを持つて日本を後にしました。不思議な事に、花嫁さん11人の中に「さち子、佐知子、祥子、幸子」4人のサチコが花嫁移住者でした。私は田舎育ちですので、無口で皆さんと仲良く出来ませんでした。毎日船の甲板で本読んでおりました。
 私の前に飛び魚が何回も飛び落ちた事が有り、広い地平線何日も、何日も海、海、鯨の行列、潮吹きの美しさ、大きな海亀にも毎日のように出合てきました。
 一度の面識もない夫を頼って船旅です。、、、毎日食堂では、七列目の五番席いつもこの席に座っていました。一列目にはいつも夫婦と子供三人の家族がいつも、同じ場所に座られた、いつも、私と目が会っていた。貫禄のある紳士で奥さんは痩せ型の病身のようで、7さい位の女の子がいつも洗濯をしていた。どうしてか、その家族にに気を取られていた。一度も話した事もないのに、、、、
 赤道祭間近に、その紳士が私に「移民大家族の仮装行列をするのですが、夫(マリード)になってくださらないか?」「男性になっ出場してくださ、背広帽子、ネクタイ用意しますから、、、、」私は「ハイ」と答え、当日が来ました。
 この紳士は(コンドウさん)子供、ツクツクボウシのように13人の子どもを連れて、大きなお腹を抱え、スカートに頭はレンソ、、私は背広に、ネクタイ、帽子、立派な夫に扮したと思います。ゾロ、ゾロと13人の子供連れて(移民大家族)の行列、大かつさいでした。60年も過ぎ、それが因で私も大家族(貧乏人の子沢山)、、、懐かしい思いでです。
​ あの紳士(コンドウ)さんは、パラグアイに技術移住者で行かれたと聞きました。あの、花嫁の幸子さん、祥子さん2人日本に帰られたと聞きました。コロナ大変な世の中、元気で生きている事に感謝して健康に気を付けて笑顔で頑張りましょう(サントス丸花嫁移住者)
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  野に咲く花 10月4日(火)
 雨続きがあり春だと言うのに寒い日々が続き、年寄りには陰気な毎日です。今日は郵便局に朝露を踏み乍らオニブスに乗った。オニブスのポントに今まで気付かなかった、タンポポの笑顔に出会った。このオニブスのポントは我が家から50メートル下で、いつも家の前のポントで今まで気が付かなかった。
 役所の方が綺麗に除草し、この目でしっかりと、黄色笑顔を見せてくれた。けなげに咲く野に咲く花、私は写真に収めた。綿帽子も今にも風に吹かれて飛んで行くような丸い笑顔を見せてくれた。
​ 丁度、春の日を待って、何十株の、けなげに咲くタンポポの笑顔、、、日本人の心も大変に変わりマスコミは醜い報道をします。美しい日本、美しい言葉、美しいおもてなし、何処に行ったのでしょうか?
幸いにブラジルで暮らせること、この野に咲く花のように、けなげな微笑み、心洗われます。私の心を洗ってくれた一日でした。 
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  細い糸
 春だと言うのに寒い日々が続きます。今日はレース編みだ!今私は森進一の歌が一番好きだ、恥ずかしい位、、、顔が赤くなるような歌もある。毎日エプロンのボルサにセルラーを入れて聞いている。こんな演歌を聞いてレース編みの針を運ぶ、家族はすっかり(お婆ちゃん)、、、と言う。でもこれも私の終活の一つです。あの人に、この人にと、細い糸を運ぶ針、、、面識も無い人、あの方にこの方に、私は瞑想に生きる。
 一枚のナプキンのレース編みが出来上がる。このナプキンはどこに届くだろうか?パラナ州、セアラー州だろうか?一針一針運んだ真心のナプキン!届いた方は幸運です、私の心が結んだ絆ですから、、、そして私の終活の贈り物ですから、、、台所の片隅で花を添える事だろう!!
​ 2022.10.7
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  山里
  

 田舎の生活は車の音一つ聞こえないなごやかな日々でした。そんなある日、スピーカーを鳴らして一台のカミニョンが細道に入って来た。大きなスピーカーを鳴らし「1リットルの空瓶と雛(ピンチンニョ)を取り変えます」と放送しながら、1キロ離れた所からゆっくり歩いて来る。
 滅多に車が入らないので、小僧達はそれを耳にすると空瓶をかき集める。我が家の子供達も慌てて空瓶を集めだした。以前に住んで居られた人が(ピンガ55)の瓶を沢山残しておられて下に積んであった、それを子供たちは手押し車に積んで下の道まで運んだ。1瓶で3羽の雛、300匹の黄色い雛を持って帰って来た。
 孵ったばかりの雛、三男は生き物が大好きで、いつもマリタッカを自分の肩に乗せて歩き、夜は同じカーマで寝る。その三男はヒヨコが大好きで、早速枯れ草を(カイション、セアーダの大きな箱)に敷いてやり裸電球を入れて、横を布で囲い黄色の雛を離した。水と餌さを与え、夜中、下敷きになっていないか三男は見て回る、1匹が亡くなった、土葬にしてその上には(コスモスの花束)が供えてあった。
 生き物は人の心が判るようだった。300匹の内、7匹亡くなった。お天気の良い日には野原の虫やミミズを食べて放し飼いにした、朝は(トウトウートウ)と呼べば真白になって私の足元に集まる、キレイラ(つぶしたミーリョ)を与え1日中野原で虫やミミズを食べている。夕方は帰って来て庭の桃の木、栗の木に止まる。みるみる大きくなって行く。
 我が家の境から道は無い。前は牧場で牛30頭がいた。いつも牛乳を頂いていた。私はお礼に(日本制品、センベイ、饅頭)を持って山を登って上がって我が家の畑を見た。丸で白い花が咲いているように見えた。畑一面動く白い花のように見事な光景でした。一日中野原の虫を探し、夜は庭木に止まる。
 ナタール前には(フェランテ)が来て30羽持って行かれる、子供の小遣いになった。あの小さい雛が愛情を持って育てられ、ただの空き瓶が子供のこずかいに、それ以来我が家では、放し飼いのカイピーラ鶏、草むらからヒヨコをぞろぞろ連れて出て来る母性愛、こんなのどかな光景は人里離れた田舎でしか見られない静かな、安堵の生活でした。
 ガスが無くなれば薪でご飯が出来る。野菜、卵、フランゴ、魚はお爺さんが毎週5キロ持って来てくださる。田舎では一銭もなくても生活出来た。

 季節ごとに竹の子、ミカン、柿、栗、ゴヤーバ、ジャバチカバ、山の中にはレモン、そして(蘭の花(シュウバデオーロ)が神秘なまでも微笑んでくれた。私はその花を家に持ち帰らず、静かに山の中で子孫を増して下されと見守った。
​ もう一度あの昔の生活に戻りたい。夢にまで見るあの山里の安堵な生活に。

   年寄りの楽しい思い出は尽きない……。

    2022.10.09記

埴生の宿
庭の千草
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​花の町
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  豊作 2022.10.18

 主人の十一回忌がやって来た。三年以上もコロナで訪れていない(c.c.c.)納灰堂、娘に二ヶ月前から予約してもらって、十月九日十時、家族一同が出席して、主人に一人一人が焼香した。

 雨続き寒い日々だったがこの日は朝から晴天、お弁当持ちで孫、曾孫を連れてのピクニック、四台の車で家族一同が集まった。大きなメーザを囲み乍の昼食、私は胸が熱くなった。

 主人も喜んでくれている事だろう?、、、このコロナの時代も乗り越えて誰一人コロナにもならず、家族一同が集った事、この青空の(c.c.c)で 孫、曾孫達と(ブランコ、スベリ台)等で楽しんだ、こんな事は私の人生に一度も無かった、蒼い芝生を踏み乍ら何とも言えない幸を感じたことでした。

 主人が25年前に(錦鯉)を寄付させて頂いた鯉は大きくなって居るだろうが、この度は見る事は出来無かった。七回忌の時には不思議に、池の浅瀬に手が届くような所まで姿を現し尾を振り(チアオ、チアオ)と姿を消した。

 今年は雨上がりで池の水が一杯だった。孫や曾孫は山の中を歩き池の橋を渡り空気の良い自然界、楽しいピクニックでした。私は池に立ち、帰りぎわ(青い白い斑点の大きな蝶)が現れて私達の前に後ろに私達の輪の中に入って来たのです。

 私は(満男)さんだ、、、喜んで家族の輪の中に、、、僅か1分足らず、、、「満男さん我が家は一家和楽です。安心して下さい」子供八人、孫十一人、曾孫三人、来年又孫が誕生します。

​ 婿、嫁さん皆集まれば三十一人に増えました。私と貴方二人でしたが今は大豊作です。来年も来ます、安らかにお休みなさい。、、、幸子。
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 谷間との別れ

​ 夫が40歳になったら、この谷間とも別れを告げると言う。子供達は今からテレビが見れる、冷藏庫を買うと瞳を輝かす。だが、私は谷間とは別れたくない。草花を折って花瓶に生けた。疲れて帰って来た夫が「今年も山百合が咲いたか」と喜んでくれた。

 だが別れを告げるのだ……一日の汗を流してくれた露天風呂も、私の心を洗ってくれた、小川のせせらぎとも別れを告げるのだ。だが私は忘れはしない。この谷間での楽しかった貧乏生活を決して忘れはしないのだ!。 2020.10.21
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  貴男と二人で    2022/11/01

 コロナ自粛生活が始まって二年程した頃の事でした。息子のお友達が、自分はシャカラの土地を持っているのだけれど、ミナスに住んで居るお父さんが年だし、このコロナ禍で、自分もミーナスに帰り父の近くで事業がしたいから、シャカラの土地を売りに出しているのを知り、息子は、お母さん見て来て、気に入ったら俺が買って上げると言った。

 こんな機会を逃がしてはと思ったので見に行った。11ミル平方(約半アールケール少し足りない)土地はトラトールで整地してあり、今は草木が生えているけど、土地は肥えている、5本のアラメでセルカして囲んであり、坂道で一番上に家があり、水は下からボンバで上げる。

 まだ建てたばかりで窓も、ポルタも仮りの窓ポルタだった。コロナになり仕事が止まって居るようだった。私はとても気に入った。この半アールケール四方にセルカを兼ねてレモンの木を300本植えると5年目位から、レモンが成る。土地には、カボチヤを植える。土地の境には(ピシーナ)もある立派な(シャカラ)で一番奧なので誰も入ってこない安全な場所だ。

 もしも主人が生きていたら二人で暮らせるだろう!だが、ロードビアリアから、7kmもあるので孫の学校への毎日の送り迎えは出来ない。友達は買ってくれるなら(安く)するからと云って呉れている、そして彼はミーナスに帰れるからと。だが其処を買っても私一人では住まれない。今は思う、どれ程主人が生きて居てくれたら有難いだろうと。世の中は思うようにはならないのだ。

 お盆も近くなり主人の11年回忌も済ませ、そのせいかどうか知らないが、私は11年間一度も主人の夢を見た事がなかった、でも昨夜見た夢では、あの以前見に行ったシャカラの土地で、カイピーラの鶏を放し飼いをして、レモンの木も青青と大きくなっていた。ススキの穂が揺れる野原で、森伸一の歌を聞き乍、二人でミカンを食べている夢を見た。

 二人とも50代だった、貴方が一度だけ褒めて下さった言葉「お前は姉さんかぶりに絣のモンペが一番良く似合う、田舎女だ!」私はその姿でした。この言葉忘れず、陰の女性で生きて行きます。コロナ自粛生活も終わりかけて居る。「幸子、もう思い残す事、書く事がないだろう、ゆっくり孫の子守りでもしておれば良い」夫の言葉でした……。
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 終活  2022.11.03

 八十才も過ぎれば明日の命は誰にも判らない?。あの方が亡くなられた、まだ六十才なのに……家族でこんな話しを聞き乍ら、私も終活に整理しなければ……大きなボール箱、五箱持って来て「お母さん要らない物片付て下さい、ドアソンしますから……私は三月前から片付ている。

 ボール箱を開けて、洋服タンスを開けて一つ一つ手に取るが、いやこれも田舎に行けば野良着になる、この靴も畑で履ける、このズボンも仕事に履ける。結局又元に戻す。こんな事の繰り返しで前に進まない。私だけだろうか?私は田舎に行く夢を持ち続けている。色々の苗を所狭しと作っている。イペーの苗、プリマベーラ、イチジク、梅の木、藤の苗も綺麗に出来た。今青、青と葉をつけ蔓が這い上がる、来年は一房位咲いてくれるだろうか?。そんなことを考えながら、何でもかんでも苗を作っている、月下美人の苗は三十本位い出来ている。

 毎朝庭の草木に声をかける。花、草木は夜露に当たらないと元気が出ないようだ。サーラの鉢の蘭は毎夜外に出して夜露の空気を吸う、花も生き物、嬉しそうに微笑んでくれる。これが毎日の繰り返し……我が家の隣はユーカリ林、朝、ベージュ色の静けさと共に、小鳥達のさえずりが聞こえる、朝六時、決まった時間に(パパガイオ)の親子五羽が(グアイーグア)と飛び立つ、それにつられ我が家の(ピリキット)達も鳴き声をあげる。ある日可笑しな鳥の鳴き声が聞こえた、家の前の電信柱に(口の長いトゥカーノ)の子供が親に外れて親を呼んでいた。

​ 私達が移転した時は、隣は(ウニバンコ)の職員の養成場(事務所)で毎日何百人もの人の出入りがあった。時代の流れであの大きな建物も壊され、どんどん砂利が運ばれている、行く行くは大きなアパートでも建ち並ぶのだろう。私はこの小さな裏庭に何でもかんでも植える。水のポットに、モランゴを15株植えた。白い花が咲きモランゴの実が赤く色付く。毎日のように一粒、一粒口に運ぶ、まるで五才児のように……この裏庭の土いじりが一番の癒しです。

​ もう一度、田舎に帰りたい。この夢だけは頭から離れない……だから私の終活は何時までたっても、ボール箱の中には物が入らないのです。でもこの夢があるから、雨が降れば、蛙のように喜んで苗を植える。終活には、まだ間があるようです。
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 水に放された幸子
 自粛生活も終わりになりそうです、この3年間大変な世の中、世界を暗闇に、多くの方が亡くなられ、恐ろしい位の世の中過ぎ恐竜が竜巻と共に大きなうねりを立てて過ぎ去って行こうとしている今、家族が誰もコロナに掛からず、無事に今日を迎えられること、本当に感謝です。

 私はこの自粛生活が大きな変身に成りました。私は九死に一生を得た体験をしたのです(病気、蘇生)を読んで下さった方は御存事の事と思います。自然の力は私に生きる力を与えてくれました。あのオニブスの中で声を出して泣いたあの時、真白いゴヤーバの花が私に(貴女は蘇生したのですよ!生きるんですよ!)と喜びのエールを送ってくれました。

 生きた喜び、それは、体験した者しか判らない蘇生です。それからは、私は何も怖い物が無くなりました。一日一日生きて居る感謝の気持ちです。もしもあの時、この世を去っていたら……私の人生も語れないだろう、あの方にこの方に感謝の言葉も掛けれ無かっただろう、健康の証として贈らして頂いたのが四百枚以上になった。(レース編みのナプキン)つたない文章を綴り「幸子さんの日記」として、サイトにも石田様が入れて下さり感無量です。

 丸で水道の蛇口を開けて止まらなくなった
ように、ドン、ドン止まることなく私の心の溜まり物が文になって綴れたのです。笑う人もあるだろう、感動して下さる方もあるかも知れない、私の楽しい一時でした。その文章を(キャチボール)のように石田様が受け止めて下さり私の「幸子さんの日記」としてサイトに入れて下さいました。身寄りの無い私は、兄のように甘えました。

 楽書倶楽部にも、投稿させて頂き(水に放された幸子)本当に楽しい自粛生活でした。拙い文章を読んで頂いた方が
た(ピンチをチャンス)に出来たこと幸せです。人生いろいろな事がありますが、負けないで最後に勝てば、勝利者です。私は怖い物がなくなり勇気満満です。

 最後に楽書倶楽部の発行者、「前園博子様」「石田勉様」大変にお世話に成りました、親子のように激励して頂いた梅崎善明氏(お父さん)……有り難うございました。「水に放された幸な幸子でした」読者の皆様大変に有り難うございました。  幸子....11月8日...終
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うぐいすの綱渡り  2023年/11月/02日​ 日記
​ 一老人からお電話があった。「お盆休みに家族でシーチオ(農場)へ行き、清々しい空気を吸い、小鳥のさえずりで目を覚まし、優しい金せんかの花の香りを嗅ぎながら、身も心も清められるような気持になった」張りのある明るい声で、そんな喜びの電話が、毎朝7時前ごろかかって来る。
​ この方は主人とコチア青年の同船者の方で、私達の結婚式に出席して下さり、私とは61年のお付き合いです。
10年前頃、心臓の手術をされてペースメーカーという機械が入っているそうです。死の境を超えて来られた方、何回も倒れて頭を打たれ、今ではクイダドール(使用人)のお世話になっておられる。
 あの頑固な顔が、穏やかな仏様のようなお爺さんになり、「有り難う」と感謝する老人になられました。私は日本人男性の頑固さを知っています。私が「娘さんの言うとおりにしなさいよ!」と忠告すると、「幸ちゃんの言う事を聞くよ!」と云ってくれます。「自分の足で歩ける。自分の事は自分で出来る。それだけで有難い、感謝ですよ!」と言うと、「そうだな!」と返してくれます。
 昼は自分の家で使用人と、夜は娘さんの家になど、一か月ごとに代わり番こで過ごしているそうです。日本語では「タライ廻し」でしょうか。それを彼は感謝の言葉に代えて、こう私に言う。「幸ちゃん今俺は‘‘うぐいすの綱渡り‘‘の生活だ」と。喜びの明るい声で。Whatsappで毎日掛って来る。私も聞き役の止まり木かも知れない。嬉しい言葉「うぐいすの綱わたり」。老人
​の幸せを感じた、嬉しいお電話でした。
 
​今年も月下美人の蕾が
たくさん出て来ました 2023/11/18
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止まり木 2023/11/19 ​ 記

 又、中庭のイペーの木に花が三ツ咲いた。もう春なのだ。一杯蕾をつけて暖かくなるのを待っている。その木に二羽の小鳥が肩を寄せ会わせて、毎日止まり木のように仲睦ましく、日向ぼっこをしている。私はこの小鳥の中むつましい姿を見て私もこの小鳥のように止まり木に......老人達、後の余生を日本語で話し、嬉しかった事、悲しかったこと、肩を寄せ会せ話しを聞いて上げたい。

 誰もが今までの人生の思い出を胸に持って生きているのだ。余生を誰かに聞いてもらえたら、心の重みが軽くなるはず、嬉しい事共に喜び、悲しい事共に涙し、心の重みを軽くして、余生を楽しい毎日を過ごして頂きたい.......と私の最後の仕事と胸に決めている。

 この二羽の小鳥を見乍、ほのぼのと、老い行く私達......止まり木が必要です。私は誰かの止まり木に成ってあげたい。.....s子

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敬老の日  ​2023.11.21

 梅崎氏の短歌(私を思い)....

 ●「パソコンで知り会し友と意外なる場所で出逢いてしばし戸惑う」

 ●「初対面なれど如才無ひとにして旧知の如く話ははずむ」

 ●「この吾を「お父さん」と親しめる君は八十われ九十八」

 ●「たんぽぽに己が生命を重ねたるエッセイストその人思う」

 ●「こんなにも眩しく咲ける黄の色の無言はよろし無言で対う」

 ......もったいない位の短歌を詠んで頂いて感無量です。梅崎氏は、お友達が借してくださった本の著者の写真が、私の父とそっくりで、その日は父を慕い(親不こう)を詫びて一日泣きました。そんな事でとても(近親感)を持ち(ブラジルのお父さん)と呼んでおります。

 (父の日)には必ず訪問します。二回目の訪問(敬老の日)に女中さんが、来年は来れるか判らないので撮ってくれました。

 いついつまでも、お元気で、100才の、ブラジルのお父さん!!....幸子

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