我が思い出の歌
私達には生まれてから今までに数々の忘れられない思い出の歌が有ると思います。
それらの歌を思い出して皆さんと一緒に聴くとしたらどんなに楽しいことでしょう。
どうかこちらに想い出の文章と曲名を知らせて下さい。このサイトにのせて行きます。
先ず私の思い出の歌です。
私が生まれてから今迄の思い出の歌を探ってみました。随分沢山有るのですが、順番に思い出してみると、尋常小学校に入る以前の歌の思い出は何も思い出せません。尋常小学校へ入ったのが昭和15年で太平洋戦争前でしたから、小学校の教科書には「咲いた咲いた桜の花が」とか「花咲か爺」が載っていたのを憶えています。
私の父がこの頃中国の戦地から除隊し帰国して来ました。父は満州事変から支那事変まで二回も徴兵され体を壊し、帰って来たのでした。父は帰国して暫く療養していましたが、私が尋常小学校2年の時に36才で亡くなりました。
昭和16年12月に太平洋戦争が勃発し、小学校が国民学校となって戦時色、一色となり、学校では先生が生徒達に君達は天皇の赤子(せきし)。であるからお国の為に、わが身を顧みず立派な国民になり身を捧げるのだという教育を一生懸命していました。
父が戦地から帰って来て亡くなる二年間あまり、戦地での出来事の話をしたことは憶えていませんが、この歌「ああ我が戦友」を口ずさんでいたのを今でも忘れません。
父 石田徳蔵 中国にて
太平洋戦争も激しくなり最初の内は日本軍もあちこちの戦いで破竹の勢いで進撃をしていましたが、途中からアメリカの反撃が始まり段々と押され気味になって来ました。
小学校では相変わらず先生が日本は絶対に負けない、最後には神風が吹き日本が勝利すると言っていました。幼い私達もそれを信じていました。だが神風は吹かず、悪魔の風が広島と長崎に吹き荒れ日本は負けました。戦争中は戦争鼓舞の軍歌が沢山流れていましたが、心に残って居る歌は楠木正成と正行(まさつら)、の桜井の別れです。
戦争中に持て囃された歌で「桜井の別れ」は、西国街道の桜井駅(さくらいのえき)で、楠木正成、正行(まさつら)、父子が訣別する逸話である。桜井駅で別れた後、正成(まさしげ)、は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。桜井の駅の別れ、桜井の訣別ともいう。
後に子の正行(まさつら)、は四條畷の戦いに赴く直前、辞世の句を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫った「返らじと、 かねて思へばあづさ弓、なき数にいる名をぞとどむる、」が有名である。この頃小学生の私は、どうして親も子も死ぬと分かっている戦いに出て行かねばならなかったのか分からなかった。この歌を聞いて心に何とも言えない寂しさを感じたものです。
桜井の別れ
桜井駅跡にある父子別れの石像
私が昭和15年に尋常小学校1年に入学してから、太平洋戦争が始まるまでの短い期間でした
が、まだ戦争前の穏やかな学校生活で、音楽の時間には「春の小川」や「夕焼け小焼け」「赤とんぼ」等の平和なうたを歌っていましたのが思い出されます。
春の小川
夕焼け小焼け
赤とんぼ~
昭和16年12月に日本は太平洋戦争に突入し尋常小学校は国民学校となり、学校での教育は軍国主義の啓蒙の場となりました。戦争中に見た映画で、たしか「轟沈」という潜水艦で出撃する時に流された歌「海ゆかば」にひどく感激した事を憶えています。
「海ゆかば」は昭和十二年、軍靴の響き高まる中、国民精神総動員運動に呼応し、国民歌謡として作曲され、戦時体制への精神教化の歌で、軍歌ともなりました。
原詞は大伴家持の万葉集にあり、信時潔が作曲した荘重な調べの傑作で、太平洋戦争末期には大本営発表等での準国歌、また玉砕報道の鎮魂歌(レクイエム)として放送されました。
海ゆかば
私達の小学校生活は2年生から6年生まで戦争の真っただ中でまともな学校生活ではなかった。村の多くの男性はほとんど出征し、春には田植えの手が足りないから自分の家の田植えが済むと、他所の家の田植え迄手伝いに行ったり、学校の「分団作業」とかで、開墾、どんぐり拾い、野草摘み、マオの皮むき、ラミー取り、等、秋には農家の稲刈りを手伝ったりで、あまり楽しい思い出は浮かんでこない。その頃、町の(まちの)、映画館に映画を見に行くと、勇ましい戦争の映画ばかりで、必ず軍歌が歌われていました。まず出て来るのは、日露戦争時の。「水師営の会見」。「橘中佐」。「広瀬中佐」。「戦友」。支那事変頃から、「日本陸軍」。「軍艦マーチ」。「麦と兵隊」。太平洋戦争頃から、「予科練の歌」。「太平洋行進曲」。「月月火水木金金」(げつげつかあすいもくきんきん)。「ラバウル小唄」等、沢山の軍歌があります。
広瀬中佐。
日露戦争旅順港封鎖作戦で、部下の杉野兵曹が行方不明になり、探していて(見つからなくてあきらめてボートに移ったようだが)そこに敵弾が頭部に命中して戦死した。 部下のために自らの命を捨てたとして軍人の鑑と言われ、戦前は「軍神」となり、「広瀬中佐」という軍歌も出来ました。
広瀬中佐
支那事変頃から
日本陸軍
日本の軍歌。 大和田建樹作詞、深沢登代吉、作曲で1904年(明治37年)7月に発表された。 「日本陸軍」は1937年前後に当時の兵科に合わせた歌詞の追加が行われた。
日本陸軍
太平洋戦争頃から
太平洋行進曲
太平洋行進曲は、1939年(昭和14年)にビクターレコードから発売された軍歌。作詞:横山正徳、作曲:布施元。海軍省選定歌。ラジオ番組『国民歌謡』で放送。同社から3種の歌手、編曲、カップリング曲の異なる版が順次発売された。
太平洋行進曲
予科練の歌 (若鷲の歌)
戦時中の若者は皆、予科練習生になるのをあこがれたものでした。
予科練とは海軍飛行予科練習生の意味であり、大日本帝国海軍における航空兵養成制度の1つです。 14歳半から17歳までに少年を全国から身体検査や飛行適正などの試験により選抜し、搭乗員としての基礎訓練をしました。
予科練に入れば、学問を学べるだけでなく給料が支払われたので貧しくて勉強をすることができなかった少年たちも志願をしました。
終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。終戦が近くなると、特別攻撃隊に編成された人も多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。
若鷲の歌(予科練の歌)
戦時中の子供たちが歌った歌
第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活を送った。その抑留期間中に、吉田正と増田幸治が作った、この「異国の丘」を初めて発表したのは収容所の演芸会だった。合唱していると胸が詰まり、歌いながらみんな泣いた。これ以降、作業の行き帰りや夕方の人員点呼時に、皆が口ずさんだ。お互いをいたわり、励まし合うようになり、自分さえよければといった殺伐とした雰囲気は次第に薄れていった。シベリア最初の冬がようやく終わる昭和21年(1946)の3月ごろだった。その後日本でこの歌は大流行した。
舞鶴港に上陸する、抑留からの帰還兵
異国の丘
里の秋
終戦による引き揚げ船は南洋からもあった。この曲は1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組『外地引揚同胞激励の午后』の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組『復員だより』の曲として使われた。
里の秋
帰り船。
この歌も戦後に外地から引き上げて来た人達を乗せた船を歌ったもので、田端義夫が歌って大ヒットした忘れられない歌です。
田端義夫
帰り船
岸壁の母。
息子の帰還を待ち侘びて舞鶴の港まで母親が出迎えに来たが中々息子は帰ってこなかった、悲しい歌。端野いせさん(左)と息子の新二さん(いずれも舞鶴引揚記念館提供)
岸壁の母
2000/08/10、「母は来まし~た」で知られる二葉百合子さんの大ヒット曲「岸壁の母」。
終戦後、引き揚げ船が着く京都、舞鶴港に通いつめた母の心情を歌った演歌だが、このモデルとなった、故、端野、いせさんの一人息子、新二さん(75)が中国、上海市で生存していたことが10日までに分かった。帰還を待ち続けた母の思いを知りながらも、「死んだことになっている自分が帰れば、有名になった母のイメージが壊れてしまう」と帰郷を断念したという。
九段の母、(くだんのはは)、くだんの母。
戦争が終わって少しづつ日本も復興の気配がして来た頃、歌われ出した歌。
くだんの母
太平洋戦争が終わってから少し落ち着いて来た時期、戦前に作られた懐かしい歌も少しづつ歌われるようになりました。
真白き富士の嶺。
1910年(明治43年)1月23日、七里ヶ浜沖で逗子開成中学のボートが転覆し、生徒12名が亡くなった。逗子開成中学は、当時の校長が海軍将官だったため、海軍軍人の子弟が多く通っていた学校だった。
この日、少年たちは、軍艦「松島」から払い下げられたカッターで江の島までの旅に出るが、その帰路、行合橋を過ぎたあたりで転覆事故に遭ってしまう。ボートには12名の少年たちが乗っていた。 その中には小学生もいた。
遭難事故は、江の島や七里ヶ浜の漁村で目撃され、いっせいに半鐘が打ち鳴らされ、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出したが、海に投げ出された少年たちを発見することはできなかった。転覆と同時に少年たちの姿は見えなくなっていたという。
真白き富士の嶺
「花」。(はな)は、瀧廉太郎によって作曲された楽曲。作詞は武島羽衣。東京都墨田区では、本曲を「区民の愛唱歌」に指定している。隅田公園の台東区側には本曲の歌碑がある。「荒城(こうじよう)の月」、「箱根八里」と並び、瀧廉太郎の歌曲の中でも広く親しまれている曲のひとつである。
花
「荒城の月」。こうじょうの月。
発表されたのは、1901年(明治34年)のこと。当時の日本では「蛍の光」や「仰げば尊し」など、西洋音楽に日本語の歌詞を当てはめた歌曲が主流でした。
そんな中、1898年に東京音楽学校(現、東京藝術大学)から中学唱歌用の歌詞を委託された土井晩翠は「荒城の月」(こうじょうのつき)を作詞。この詩に曲を付ける公募が行われ、滝廉太郎の旋律が採用されて「荒城の月」(こうじょうのつき)は完成したのです。
作曲にあたり「荒城の月」(こうじょうのつき)の詩で思い浮かんだ情景は、幼少期を過ごした大分県竹田市の岡城だといわれている。 岡城は明治4年(1871)、廃城令により建造物が全て破却され、廉太郎が竹田市で過ごした頃には、すでに石垣のみの山城だった。
荒城の月(こうじょうのつき)
「早春賦」
大正時代に吉丸一昌(よしまる かずまさ)が作詞、中田章(なかた あきら)が作曲しました。
吉丸は大正の初めに信州の安曇野を訪れた際、その雪解け風景に感動して「早春賦」の詩を書き、安曇野の遅い春を待ちわびる心情を歌ったとされています。 昔は暖房もなかったし冬が厳しかっただろうから、春が待ち遠しかったんでしょう。 …
早春賦
椰子の実
1898年(明治31年)夏、東京帝国大学2年だった柳田國男は、伊良湖岬の突端で1カ月滞在していた際、海岸に流れ着いた椰子の実を見つけた。「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した。」
柳田國男は、親友だった島崎藤村にその様子を話し伝えた。藤村はこの話にヒントを得て、椰子の実の漂泊の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂いを重ね、歌曲『椰子の実』の詩を詠んだという。
(写真:伊良湖岬と恋路ヶ浜)。
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