我が思い出の歌
思い出の歌。 中野 明美
島倉千代子の「この世の花」
私の学んだ高等学校は半島にあったため、近隣5島の中学、本島の与那城中学、具志川中学、南風原中学、そして我が母校高江洲中学、思い出すだけでも九つの中学から受験、231名が合格して1956年3月、A,B,C,D,E,5組に分かれて始業、私はB組で最初各自の性格、能力を知らない所為でしょうか、担任の先生がクラス会の役員(会長、副会長1名,書記2名)を決めて下さった。
時間が経ち他校から来た生徒達とも仲良くなりだしたある日、街中にある具志川中学から来た女生徒(平良さん)が「素晴らしい映画がある、是非私を連れて行きたい、今日の午後はホームルーム活動なので、休んでも学業に影響ない」しつっこく誘うので、同行了解し学校を早退して街中の映画館へ、高江洲中学は農村地帯で映画館は無いし、それまで映画を見た覚えもない。
街中映画館のスクリーンへ写し出されたのが「この世の花」画面も引き付けられたけど、島倉千代子の「赤く咲く花、青い花、この世に咲く花かずかずあれど」歌詞も歌声もすっかり魅了された。それまでは我が家に流れる歌は父や母の歌う軍歌だったので、なおさらにボーっとして良い気持ちでいた。
翌日登校してみると弁の立つ香村君が緊急クラス会を開くと言う、皆の視線が私に向かって居るので、不安になった案の定、書記がクラス会をすっぽかすとは大きな問題だ、当銘さん(私の旧姓)昨日のクラス会の報告をして欲しい」と言われて私は書記だったのだと自覚したけど、もう遅い小さくなっていると男生書記、山田さんが立ち上がり「そのために第二書記が居る」と立ち上がり私を救って下さった。
ピンチを救われて私は山田さんが忘れられない人になってしまった。香村さん、山田さんは平安座島中学出身で常に切磋琢磨の状態で高2からは進学コース3つ、職業コース二つ、家庭科コースと6つにクラス分けされたけど、皮肉と言うのか、縁と言うのか、高校3年卒業まで私達3人は同クラスでした。
2008年、卒業50周年誌が送られてきたので、お二人の消息をたずねると香村君は市会議員で活躍したけどもう亡くなっていた、山田さんは九州小倉歯科大卒業して那覇市で歯科医院長として頑張って居るとの事。親友平良さんは高校卒業後直ぐに小さな喫茶店を開いたと言うので、寄ってみると同期の男性ばかり5,6人止まり木に腰掛け急に大人になった口調で喋っていた。平良さんは母親が半身不随で自分が働かないと行けないのだと、でも無理にではなく楽しそうに振る舞っていた。
私は那覇高等看護学校卒業しブラジルへ。今でも「この世の花」を聞くと当時を思い出す。