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我が思い出の歌
丸木 英朗 (カナダ・トロント在住)
楽書倶楽部64号に寄稿してる者ですが、111ページの「お知らせ」のサイトに眼が止まりました。サンパウロに行けば、老倶連での懐メロ合唱の集いや宮崎県人会での叙情歌の集い、カラオケはグロリア街の「風」やブリガデイロの「新宿」で歌っております。トロントでも歌声喫茶の会では、発足当初の世話人として東京の歌声喫茶「ともしび」の常連さんを迎えて日加合同歌声喫茶を挙行したり、ネットで検索しながら歌うカラオケクラブにも参加して軍歌を歌っております。他にもJSS(日系社会福祉協会)主宰の認知症予防が目的の歌の会にもズームのオンラインで参加してます。
前置きが長くなりましたが、ロサンゼルスに住んでた頃に、アパートの隣の奥さんが美空ひばりの叔母さんと知らずに付き合ってました。大晦日に料理されたお節料理を持って来られ、「うちのテレビはケーブルでないので日本で放映されてる紅白歌合戦が入らないのです、姪が歌うのでテレビを見せてください」と言われたので「姪御さんが歌手ですか、どなたでしょうか?」「美空ひばり」驚いたのなんの。
花笠道中、哀愁波止場、車屋さん、ロマンチックなキューピット、ひばりの佐渡情話、柔、悲しい酒、真っ赤な太陽、人生一路、風の流れに、太鼓、愛燦燦、乱れ髪、川の流れのように等々それ以来に歌うようになりました。尚、トロント紅白には二度と出場し初回は灰田勝彦の「新雪」二度目は同じく灰田勝彦の「野球小僧」を歌いました。三度目の正直で今度も灰田勝彦の「アルプスの牧場」を歌うつもりです。この先も生きておればジャズなんかも唄いたいですね。
灰田勝彦が野球小僧を歌う際には軟式野球ボールを観客席に投げ入れてましたが、僕はバットを持って舞台に立ち、リトルリーグのピッチャーに歌の2番と3番の合間の間奏曲の時にテニスボールを投げてもらい空振りしました。後で裏話で聞いたのですが、なんでもリハーサルで僕の打ったボールが怖かった司会者の女性が、ピッチャーに本番ではストライクを投げないように頼んでたそうです。
東芝メディカル九州支社勤務当時の上司の町山稲葉さんは、終戦直後に日劇で灰田春彦や灰田勝彦と一緒に出演してたグループで ギターを弾きながら歌う 鈴懸の道 が持ち歌でしたので会社では鈴懸紳士と呼んでいました。会社には戦時中の慰問団くずれの芸達者が多く日本ビクターから移籍しており、仕事はさっぱりでも慰安会や慰安旅行での宴会ではスター気取りで見事な芸を披露してました。
戦前から戦時中の日本ビクターは東芝系でしたが、戦後は松下系になり開戦時の駐米大使の野村吉三郎が社長でした。
美空ひばり
野球小僧 灰田勝彦
新雪 灰田勝彦
アルプスの牧場 灰田勝彦
僕は甲子園生まれの甲子園育ち、阪神タイガースと同じ年に同じ場所で誕生してます。共に古関裕而作曲の「六甲おろし」と「栄冠は君に輝く」を家から百メートル足らずの球場から聞こえてくるメロディーを子守唄のように聴きながら育ちましたから、歌声喫茶やカラオケでは常にリクエストして歌います。
僕達のトロント猛虎会はブラジル猛虎会と交流があり、元オーナーの宮崎さんはトロント猛虎会総会に出席してくれたことがあり、現在のオーナーも球団社長も僕の大学の後輩です、為念。中等野球時代から春の選抜野球と夏の甲子園は高校球児の憧れで純白の球を追ってた球児が今ではメジャーで大活躍してます。
六甲おろし
栄冠は君に輝く
閉会式の【栄冠は君に輝く】と球場一周 2022夏の甲子園
栄冠は君に輝く 山崎育三郎
霧島昇の「誰か故郷を思わざる」は僕の十八番の一つですので、偶にはカラオケでも唄います。新しい演歌を二百曲覚えると励んでるピアニストの女性で、三遊亭円楽と小学校から大学までの同級生から 誰かはダレかでなくタレかと訂正され眼から鱗でした、戦前から僕は誰かとばっかり思って歌ってきました。確かに霧島昇のユーチューブを聴くと誰でなくタレですね
誰か故郷を想わざる
僕が大学に入学した1954年に日本で歌声喫茶が発足しました。高度成長前で未だ紙不足の時代でしたから文字通りのポケット版の小さな歌集でした。東京では新宿に「ともしび」や「カチューシャ」、大阪では梅田に「こだま」、堺筋本町の大阪舞踏会館内に「炎」、千日前に「どん底」が開店しました。どん底でピアノを弾いてた音楽学校生が現在は立売堀にある歌声パブ「ピープルズ」のオーナーの大北整子さんです。ともしびの寺谷店長は東大法科の同期の殆どが官公庁の局長クラスか大企業の重役だけど、自分は学生時代のアルバイトを今も続けてると申されます。東大卒業当時には歌声運動は赤と看做され就職できなかったそうです。
ピープルズでの出だしの曲はリンゴの花ほころびで始まる カチューシャ です。話が飛びますが、十年ぐらい前にミュンヘンの街角でカチューシャの音色が聞こえてきたので、見るとロシアから来た ドン コサック合唱団 が路上演奏してたのです。DVDを買ったのは言うまでもありません。このカチューシャや夜霧の彼方にで始まる ともしび や 我らの仲間、泉のほとり等々のロシア民謡は学生時代に戻った気分になる曲です。
2015年にマスターズ水泳世界選手権大会に出場し、銀メダル受賞の後で本場のウオッカを飲みながら本場のロシア民謡を歌いたくて、ブラジル代表選手の宝田さんと一緒に歌声喫茶を探しましたが見つからず、ドミノと言う名のカラオケに入って歌いました。ウオッカは1ドル以下の安さとカラオケ一曲5ドル相当ルーブルの高い値段に驚きました。画面のロシア語が読めないので、昔のポケット版歌集が役に立ちました。
カチューシャ
我らの仲間
ともしび
泉のほとり
ロシア民謡メドレー2 ~泉のほとり・カチューシャ・カリンカ・コサックの子守唄・一週間
高木東六作曲の「空の神兵」は僕の最も好きな曲で歌声喫茶でもカラオケでもリクエストして唄ってます。オランダ統治時代のバタビアでは将来に空から神様が舞い降りてインドネシアが独立する神話がありました。
僕はビジネス出張でバリックパパンに行った事があります。日本の陸軍航空隊落下傘部隊ががスマトラ島のパレンバンに降下しシェル製油所を奪取し、その結果インドネシアが独立したのでした。その1ヶ月前に海軍航空隊の落下傘部隊もセレベス島に降下してますが、海軍体操の創始者の隊長が捕らえられ絞首刑になったと聞き及びます。
ブラジルに行く楽しみに東芝の先輩で世にも珍しい東大機械科卒の移民の森田左京さんとピンガを飲みながら、彼の海兵時代の恩師であった海軍体操創始者の話とかデビー スカルノ夫人のお輿入れの仕事させられ馬鹿らしくなって商社を辞めてオランダ船でブラジルに移住したと聴くのが楽しみでした。
ブラジルの ビル ゲーツと称されてた伊豆山さんと肩組んで空の神兵を歌うのもブラジルに行く楽しみでした。お二人共、既に鬼界に入られ楽しみが減りました。伊豆山さんは僕の小学校同級生だったパシフィックリーグのホームラン王になった阪急ブレーブスの中田選手と慶応同期とか、世の中狭いものです。中田も若くして亡くなっており、僕の様な死線の崖っぷちを歩いて来たバガブンドが生き残ってるのが不思議です。
空の神兵
空の神兵
僕は何故か1の字に縁があります。先ずは元旦生まれ、国民学校第1期生、1年の時の級長、新制中学第1期生、経済学部第1期生等々。来年に日本で開催されるマスターズ水泳世界選手権大会では一着でゴールインするつもりです、現在は未だ世界第2位ですが、競泳世界一になるのが生涯の目標です。
前置きが長くなりましたが、中学の英語の先生が黒板に色とりどりの絵と英語の歌を描いて教えてくれましたので、英語の時間が楽しく数々の英語の歌を覚えました。なかでも下記の曲は今も耳にこびりついていて時々ハミングします。
この先生の指導により全国中学吹奏楽団コンクールで日本一になりました、この先生が阪急少年音楽隊の隊長になられた鈴木竹男先生です。 故郷の人々、ケンタッキーのわが家、金髪のジェニー、オールドブラック ジョー、おゝ スザンナ、一月一日。
故郷の人々
金髪のジェニー
おゝ スザンナ
ケンタッキーのわが家
オールドブラック ジョー
一月一日
小さい秋みつけた
今日の日はさようなら
兄が大阪外大に入学してからと言うもの、毎日の様に学校から帰ると学校で習ったばかりの中南米の歌を歌ってるのが自然に耳に入り覚えてしまいました。地球の裏側には日本とは全く異なる世界がある事を知り、いつの日か行ってみたいと思った日々でした。まさか自分がオランダ系ブラジル人と結婚するとは思いもかけなかったのですが、この高校時代に僕の人生行路が敷かれていたのかも知れません。その頃に覚えた曲の数々は
ラクンパルシータ、コンドルは飛んで行く、花祭り、ジーラジーラ、アマポーラ、キエンセラ、ママ恋人が欲しいの、アディオス パンパミーア、カミニート、ラクカラッチャ、シェリトリンド、ラ パロマ、グアンタナメラ、カリオカ、イパネマの娘
ラ・クンパルシータ
コンドルは飛んで行く
花祭り
ジーラジーラ
アマポーラ
キエン・セラ
ママ私恋人が欲しいの
アデオスパンパミーア
カミニート
ラ クカラッチャ
シエリト リンド
グアンタナメラ
ラ・パロマ
カリオカ
イパネマの娘
大阪に本籍のある僕が、ビジネス出張で頻繁に行くマレーシアの首都クアラルンプールにあるカラオケ酒場「葵」で王将を酔っ払って歌った僕が優勝し、トロフィーを貰った事があります。ベロベロに酔っ払ってた僕は不思議に思い尋ねたら、葵のカラオケ コンクールでは最も下手な者が勝ちだそうです。村田英雄が唄うとおり、東京に出て行くからは 何がなんでも勝たねばならぬ心意気の僕ですが、東京の者なんかに負けてたまるか の反面でしょうか、東京に憧れてるのか大阪の歌は何も知らず、東京のラプソディー、東京行進曲、東京の屋根の下 なんかを唄ってます。
王将
東京のラプソディー
東京行進曲
東京の屋根の下
この写真は2015年にタタールスタンの首都カザンで開催されたマスターズ世界選手権大会で表彰台に立つ僕のガッツポーズです。ボルガ河畔のカザンにはステンカラージン、ボルガの舟歌、母なるボルガ等々数多くのロシア民謡があります。日露戦争の際に日本海海戦でバルチック艦隊の旗艦カザンを分捕り、日本で改造されたのが最初のブラジル移民が乗船した笠戸丸です。
僕の首に銀メダルを掛けキスしてくれたのは、1964年の東京オリンピックで水の妖精と称えられたスエーデン リレーチームのアンヌ クリスチーヌ ハグべリ選手で、現在のFINA(国際水泳連盟)マスターズ部会長です、為念。
ステンカラージン
ボルガの舟歌
母なるボルガ
国民学校第1期生の僕は終戦により小学校と改名されるまでの4年半は軍国少年として、勇ましい軍歌ばかりを習いました。終戦後に歌謡曲等の流行歌が復活し、先ず巷でに広まったのが鐘の鳴る丘でした。住む家なく、着る服もなく、食べるものさえない焼け跡での惨めな暮らしでしたが、もう警戒警報も空襲警報もなく防空壕に隠れる必要もない平和な暮らしになりました。
ラジオから流れてくるカムカムエブリボディの英語会話の始まるテーマ曲は自然勝手に覚えてしまいました。当時ので日本人に希望をもたらしたのはフジヤマのトビウオと呼ばれた古橋、橋爪、真木、濱口の日大リレーメンバーによる世界新記録樹立とラジオ番組の日曜娯楽版の冗談音楽でした。
冗談音楽の作詞作曲者は三木鶏郎で本名が繁田、本職は弁護士。その従弟が東芝で僕の上司でしたので僕が直接聞いた話をベースに書き流し、サンパウロのニッケイ新聞に「繁田一家の残党」と題し連載されました。
戦後に流行った流行歌で、今でも口ずさむのは勘太郎月夜唄、古城、憧れのハワイ航路、アメリカ通いの白い船、上海帰りのリル、リオのポポ売り、東京の花売り娘、有楽町で逢いましょう等々で、1964年の東京オリンピック前後に日本国中で唄われた東京五輪音頭です。
★繁田一家の残党はニッケイ新聞廃刊まで連載されましたから、同紙最後の連載小説になります、為念。
カムカムエブリボデイ
勘太郎月夜
古城
憧れのハワイ航路
アメリカ通いの白い船
上海帰りのリル
リオのポポ売り
東京の花売り娘
有楽町で逢いましょう
東京五輪音頭
十年前にJSS(トロント日系社会福祉協会)事業の一環として認知症予防の為の歌の会が発足し、そろそろ耄碌気味の僕も参加しました。
消防法の規定によりドアが一つの部屋には十人以上入れないので定員十人でABの2組です。僕達のB組では最年少が三遊亭円楽と小学校から大学まで同級生だった女性ピアニストで、最年長がトヨタカナダ初代会長未亡人で白寿。
歌集は野ばら社発行みんなのコーラス、西東社発行の童謡唱歌こころの歌、野ばら社発行の世界のうた。月に二回第二と第四月曜の午後1時半から3時まで。リクエスト曲は一人2曲で合唱の後は茶話会で雑談。
ちなみに、今年6月13日の歌唱曲:
茶摘み、花のまわりで、浜辺の歌、ボニーよ我に帰れ(英語で)、故郷、四季の歌、オー マイ ダーリン クレメンタイン(英語で)、夕焼け小焼け、山小屋の灯火、シェナンドール(英語で)、緑のそよ風、芭蕉布
茶摘み
浜辺の歌
ボニーよ我に帰れ
ふるさと
四季の歌
いとしのクレメンタイン
夕焼け小焼け
山小舎の灯
シエナンドー
みどりのそよ風
芭蕉布
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