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 思い出の歌 平浩二 

 

 思い出の歌を聴いてあまりにも懐かしく涙が溢れてきました。赤とんぼを聞いて小学校のころを思い出しました。岸壁の母は今でもパソコンで聞いています。涙なく聞くことはありません。戦争は悪魔です。ロシア、ウクライナ戦争が一日でも早く終わればいいと願っています。からたちの花、中学を卒業

した年の秋、品川の夜の公園でお祭りがあった時、舞台で島倉千代子が、からたちの花を歌ったのを聞いて感激しました。それから亡くなるまで大フアンでした。

 旅愁、更け行く秋の夜は、故郷と同じようにうさぎ追しかの山のように懐かしさがいっぱい詰まっています。ブラジルでは何かあると必ずと言っていいほど歌いますね。本当によい歌です。仰げば尊しは、あまり聞いたことはありませんが、小学校、中学校時代に毎年卒業式に歌ったので脳裏に焼き付いています。長崎の鐘は毎年8月に聞きます。いい歌ですが悲しい歌です。

 

 プーチンは核のことをチラつかせて、ゼレンスキー大統領を驚かし、世界から批判を浴びています。日本がもっと強力に非人間的狼とプーチンを非難してもいいと思う。本当に狼のような男です。

 

 雪の降るまちをは本当によい歌です。カラオケで練習したのですが、なかなか良く歌えませんでした。シエーン、ムンリバーをゆっくりなので一人で練習しましたが歌えませんでした。サンド・オブ・ミュージックは、有楽町のスカラ座で初めてミュージカル映画を見ました。ドーナツのド~で始まる歌、アルプスの絶景は、いまだに脳裏に焼き付いています。大変に素晴らしい映画でした。

 

 カラオケ

 私はJICAリオデジャネイロ事務所在職中だったころ、何度も植民地へ結婚式や移民祭、諸行事等に招待され、その都度酒宴の席で歌を歌わされた。自分も歌が好きだったので歌った。当時はカラオケが無かった時代で酒の勢いで、だみ声を張り上げなりふり構わず歌った。家内は隣の席にいてはずかしく、一緒に出席するのを好まなかった。

 

 あれから数十年経ってから、ダンス教室でアシスタントをやった後に、カラオケダンスをしていると知った家内は、私に「人前では絶対に歌わないで下さい」と厳しく釘を刺した。

 

 カラオケ舞台では、上手に歌っている人、まずまずの人、音痴な人、音痴な人は自分が音痴だとは思っておらずゼスチャーを交えながら堂々と歌っているおばあちゃんもいる。その桁外れのテンポに思わず吹き出してしまった、余りにも度が過ぎると思った。これ程の音痴な人でも舞台で堂々と歌っている。私はもっとましに歌えると思い、今まで歌った人の中に、私が知ってる歌があったので、意を決してその人からテープを借りて、飛び入りで歌った。歌い終わった後でテープを貸してくれた人や他の人に、「今、歌ったが調子外れではなかったか」と率直な意見を聞いたところ「普通に歌ったよ」と云った。それを聞いた瞬間、欣喜雀躍し、その人からカラオケ教室が何処にあるか聞いたところ、リベルダーデの駅の近くにあると云った。当時、カラオケ大会が大盛況で、どのカラオケ教室も流行っていた。電話したところすぐに来るようにとのことで行った。これから始めようと云われた。どの歌を習うのか聞かれたが、「今日、初めてカラオケ教室に来た」と言った。先生が選曲してくれた。

 

 練習して三カ月位経ってから大会に出てみないか云われた。カラオケダンスでちゃんと歌が歌えればそれでいいと思っていたので驚いた。大会で歌うとは全く思ってもいなかった。先生は初めはみんな、そう思っている。早く経験を積むことだと云って、何度も何度も勧めるので出場することにした。

 

 カラオケ会場の舞台の階段を上った横に順番待ちで立っていると膝が、がくがくと震え出した。それを見た司会者が、「落ち着くよ」と云って塩水を持って来てくれた。名前を呼ばれマイクの前に立った。何百人もの人達が一斉に私を見ている。「エーイ!どうにでもなれ!」と肝を据えたところ不思議に落ちついて歌うことができた。歌い終わった途端、再び震えだし暫くの間、舞台の階段を下りることができなかった。結果発表は見事、Bクラスの最下位であった。先生は「新人」ではなくBクラスに登録していた。次の出場の時は「新人」で歌い優勝し、Bクラスになった。Bクラスで十五回位歌って、二回優勝しAクラスに昇格した。先生の教え方が、私にとって、どうしてもしっくりせず、そのカラオケ教室を辞めた。

 

 次に友人の紹介で行った所は、教え方も親切で人柄もよかったが、メトロから大分歩いて行かなければならず半年程で辞めた。私が住んでいる近くにカラオケ教室のあるのを知り、そこに行くことにした。このカラオケ教室の山田先生は教え方が上手で生徒数が大勢いた。私は大会に出場するのを、この機会にやめて、ここの教室で「昴」​(すばる)「乾杯」「山河」「昭和最後の秋のこと」「千の風​になって」「星影のワルツ」「悠久の男」「サライ」等々、曲の難しい歌を徹底的に練習した。簡単な歌は早く覚えるが内容が浅く歌っていても全く感動が湧かない。ここの教室でいい歌を大分習得することができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の歌を聞いた家内は、難しい歌をちゃんと歌えるのを知って音痴とは以後言わなくなった。長年の汚名を挽回するに至ったのである。家内の前で堂々と歌っていた......。ダンスもカラオケも私にとっては、最高の趣味であった。

 

 三度目の再発で決定的な身体にダメージを受けた。難聴になり、呂律に支障をきたし、以前のような話ができなくなり歌も全く歌えない、その上に歩行が出来なくなってしまった。長年、練習して来たダンスもカラオケも一瞬のうちに私から消え去ってしまった。しかし、悩んだり悲しんだりはしていない、私にはまだまだ生きる力が沸々湧いている、それは『生き甲斐の俳句』があるからである。

 

  ・風鈴や消えてまだまだ希望の灯    浩二

  『最後に「病で悩んでいる方」にメッセージを贈ります』。

 

 どんなに苦しくとも諦めないで下さい。自分に勝つことは病に勝つことです。病気に必ず勝つと強い意志を持ってください。希望の燭光が射してきます。ご自身にとって生き甲斐のある趣味に没頭することをお勧めします。そして毎日リハビリをしている方は休まずに苦しいでしょうが続けることが肝心です。必ず良くなると信じています。どうぞ一日も早く完治されることをお祈り申し上げます

乾杯
昴(すばる)
昭和最後の秋のこと
山河
千の風になって
星影のワルツ
悠久の男
サライ
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