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アンカー 1
 澤里 利代子
 昔の 幼かった頃の思い出です。
吉幾三の "津軽平野" の演歌を聞いてたら、記憶に残る思い出が浮かんで来ました。
津軽平野
 或る出稼ぎの男

 むかし似島(広島)では砂をとる"船乗り"たちは、年末には 、 決まって 休みに入る。一年中 一生懸命 働いて、家に帰れない雇い人は、髪もチャンと切って"正月"は、新しい年を迎える支度をするのが、日本人独特の時期である。反対に店を持つ床屋は、年末を前に髪を切る客で、てんてこ舞い。そんな中、店は島人間で一杯になるが、中には島人間でない人も来るがそれは、子供でもすぐ分かる。

 或る年末の夕方、店の片隅でじっと自分の番を、待ってた一人の男を見かけた。寂しそうな40ぐらいの、男だったのを覚えている。7、8才 位だった私と姉は、その男に近付いて、話しかけた。

ー「おじさん 何処から来たの? 」。
  そうすると、その男は思いもよらず、私たちの無邪気な声に、驚き喜んこう答えた。
ー「おじさんはね、遠い北海道の近くから来たんだよ、」
  と言った。こっちもお構い無く、次から次と質問する。
ー「北海道の近く?」。
ー「なんで、似島に来たの?」
ー「 向こうは、 雪が降る時期は、仕事が出来んから、金に困るので、仕事がある所へ出稼
  ぎに来るんよ」。
ー「出稼ぎに ? 」 ?????
  島を出たことの無い私たちには、理解しにくい言葉だった。
ー「向こうは冬には大雪で、仕事が出来ん。2、3メートル以上も雪がつもる。仕事が出来ん
  と、子供を食わすのに金がない。だから 金をくれる出稼ぎに広島に来たんだよ」
ー「ふーん、  ?    おじさん 寂しい? 一人で ?  自分の子供の顔、見たいでしょう?。なんで
  帰らんの?」。と、こっちは、おっかまい無しに、その返事をしてくれるおじさん?、
  とやらに質問攻め。
       その男は子供二人が、身知らずもせず、話しかけられた事を、反対に喜んでこう言っ
        た。
ー「叔父さんもね、あんたらと同じぐらいの子が二人おるんよ。
ー「( ・-・)ふーん、寂しいでしょう? 子供の顔見に 帰らんの ? 」。  と、こっちは言い
  たい事ばかり。その内、そのおじさん、とやらの髪を切る番が来たので、こっちの質問
  責めが中止になった。 残念無念、、、?仕方がないので、テレビ番組の方に目を向け
  た。が、知らない内にその男は、帰ったと思ったら、何か大きな"かんぶくろ"を、持っ
  て引き返してきた。そして私たち二人にこうお礼を言って別れた。
ー「おじさん、嬉しかったよ!   アンタラが話しかけてくれて。 自分の娘らと、話していた
    みたいで、 嬉しかった。 いつか必ず会いに帰るよ、おじさんは! いや、早く会いたく
    なった! これは そのお礼。 二人で後で、食べんさい。 元気でな、、、、」。

 ?? そんなにこっちの質問責めが、嬉しかった?おまけに、普通 、親でも買ってくれたこ
 とが、無い 😋美味しい物 迄もらって。その"かんふくろ"の中には、大きな 板チョコ、
 と 大きな 袋の "あられ菓子" が入ってた。
 子供の心の記憶に残る 、懐かしい幼い頃の思い出です。

 2023年5月21日。*(生き返った 私 ?????? )。
北国の冬
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  澤里 利代子

 もう自分の故郷を、追いかけるのは止めよう。懐かしさより、ただ空しさが積もるようだった。それは、むかしの破れた靴下を、探すようなものみたいで、見つけたとしても、もう使えない靴下と同じような気もした。決してあの時は、もう帰ってはこないのだ。あの時の顔、人々、友達、みんなと遊んだ広場、村、学校。もう、帰ってはこないんだ。
 

 全てが56年も過ぎれば変わってしまっ てる。「時が全てを 変えてしまった」……それなのに、何故、自分は帰れない故郷を追いかけようとしたのだろうか?思い出は何故か、いつも思いめぐって来る……
 

 私、旧姓、益本 利代子。

 生まれは昭和31年(1956年)、広島の五日市。原爆11年後に生まれたが、広島の町は原爆7年後には、すでに立ち直った?と言うのに、なぜか家の両親は理髪店の手を持ちながら、新しい町では客が無く、下駄磨きまでするような、1番ドン底時代の4人兄妹の末っ子として生まれた。町では、食うにも食えず、生まれた赤子の私にやる乳も出ず、泣き泣き父の親元、似島に引き上げ理髪店を島で始めた。

似島(にのしま)
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似島の現在の情景
 似島は 広島の港/宇品からフェーリーで約30分。私はその島で10歳まで(小学校4年生卒業)育った。車一台通らない島。回りは全部 "海"、海、海。瀬戸内海の水がキレイで、現在もカキの養殖は続いている。思い出の歌?  *「海は広いな大きいな」。毎日、海を見ていた。小学校は島の裏、みんなで歩いて1km半。ドング林の横を歩いて*「ドングリコロコロ」。向こうに見えたみかん畑*「みかんの花咲く丘」
海は広いな大きいな
どんくりころころ
みかんの花咲く丘

 小学校の校庭には 大きな桜の木があった。松の葉で散った桜の花びらを、1枚1枚、刺して一本の"かんざし"を作って遊んだのを覚えている。なんと見事なサクラの木だったか。

*「さくらさくら」 日本の代表的な歌です。

さくらさくら

 学校の門を出た途端、口から出る歌は歌謡曲!????(校長先生に見つかっても知らないっと)!!。*柔、 姿三四郎、王将、アンコ 椿は恋の花。(都はるみ)*植木等のスーダラ節 罪なテレビの影響!!!です。知らないっと!。

王将
姿三四郎
アンコ椿は恋の花
スーダラ節

 ある日、姉が父に買ってもらった赤い毛糸の帽子に、自分は焼きもち妬いて、何故、自分はいつも同じよ うに買って貰えないのか、なぜいつもお下がりばかりなのか?とヤンチャを起こし、夕飯も食べずに泣いて寝た、母は私を憐れんで、朝起きたら枕元に母が一晩寝もせず編んだ"オレンジ色の帽子"が置いてあった。今思えば、スミマセンね。母さん。🙇‍♀️🙏

 • 「母さんの歌」 (かあさんが夜なべをして🧤編んでくれた.......).

母さんの歌
 ブラジル移民が決まり、島を出る日、島のみんなが見送ってくれ、フェーリーの船長が流してくれた曲。*「蛍の光」……泣いた😞💦せい一杯! サヨナラ!って、泣いて島とお別れして、ブラジルに移民して来ました。あれから56年も過ぎ、今では思い出の歌となりました。
蛍の光

 長女21才、保育部大学を中退、長男16才、二女13才、私が10才。13才の姉(寿子)は、友達仲間が沢山いた人だった。島を出る朝、橋の下でも1人で住むから、置いて欲しいと、泣いて頼んだ。みんな一緒にもらい泣きした。(友達、先生、学校の校長先生まで一緒に泣いた、悲しい悲しい、辛い別れだった。)一生忘れられない、悲しい思い出。何故?    ブラジルと言う遠い国へ、行きたくない!と、泣きわめく子を、犠牲にまでして、生まれた国を、故郷を出なければならなかったのか?………

  サヨウナラ 、 私の愛した故郷よ❗

  サヨウナラ、  私の思い出よ❗

                 (---第1部ーー終わりーーー)

       第2部    (移民の支度、、、そして、船の旅)

 日本の1月中頃は、まだ冬で寒い。荷物は全部、(衣類や必要品は)アルミの着物に入れ( ブリキ 衣類ケース 、収納 道具箱 、ブリキ缶 カンカン )に詰め、外側は木の箱で釘付けし、6つの箱を、先に神戸に向けて送った。(あまり早く送り過ぎて、サントス港についた時、荷物が船底で取り出すのに時間がかかった)。
 そして後から家族6人は、神戸の移住センターへと夜汽車で向かった。汽車は一番安い3等席?(固い木の椅子だったのを覚えている)。
夜明けの神戸駅はとても寒い。初めてターバンを巻いたインド人や?ほかの外国人を神戸で見た。写真(神戸の移住センター)👇
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座った前列ー左側が私です。
 神戸の移住センターに2週間くらい滞在してオランダ船/ テゲル・ベルグ号に決まる。それまで沖縄の何家族か集まったが、日本からの農業移民は私達だけだった。**(写真) 
 この次からは工業移民が始まるとされ、船ではなく「飛行機」で移民する? と言うことだった。姉の寿子は、まだ間に合うから、橋の下でも住むから、自分を神戸の日本に残して欲しいと、せがんで泣いていた。だが、船が神戸を出たら、ただポカンと失望して諦めたようだ。何て親は残酷な事をしたもんだと今思う。
 移住者はみんな船地下の3等室で中は2段ベット。窓は絶対開けられず、窓半分海の水が見えた。船の船長はオランダ人。パーサーはチャイナー。看護婦さんとコックは日本人。乗組員は全員チャイナー。かかり部長の王さんと珍さん(モチロン日本語ok). 舟の右側は沖縄からアルゼンチンへの移住者がほとんど。(当時沖縄はアメリカに占領されてた)。だが、反対側の方は全部、南朝鮮からブラジルへの移住者。
 長い船旅で初めて見た朝鮮の踊りと歌**「アリラン」は、美しい思い出の曲として残っている。少女達がみんなピンク色の民族衣裳を着て、踊るアリランは最高だった。
 
 沖縄の人達は蛇の革の三味線? ジャンジャン鳴らす。うるさい!歌?(sunnjyan ヌカバサ ちゅらいなぐー???) Ya-na-ka-gui (へんな顔)。ちゅーらかぎ  (キレイな顔)。日本語でもない、支那語でもない、、、分かりません?と、、、、

 母は1人で「おてもやん」を踊ったような気がする。お面は型紙に「おてもやん」の笑顔を書いて踊った。と言うのは、肝心の根本荷物カンカンは、ふねの底。とれるはずもない。浴衣と手拭いしかないので、しーかた有りません❗ 歌、🎵おてもやん🎵 あんたこの頃,,,
 45日間の船旅は最高だった。(何故かと言うと) 学校の勉強、宿題が無い間は、伸び伸びと自由で幸せな気持ちの毎日だった。
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👆私は中央の後ろ。黒いセーターの青年の左側。
 神戸、沖縄、韓国、支那の上海。韓国でちょっと遊びにと家族全員、町見物?にと船を降りたが、まだ戦後10年目では、日本にいじめられた?国民は「憎しみ」を隠せない。殺気をすぐ感じた父は、急いで船に帰った。写真を撮っただけでした。
電信柱の上に韓国の旗が見えます。👆
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  何故、親は日本を出る気になったのか?
 まあ、後で親の話では、ことの始まりは人間の「嫉妬心」と言うべきかも知れない。話は坂上り、広島で「食うや食わず」の生活を逃れ父親の本家、横の「納屋」を2階建てに改善し、下を理髪店、6畳半の上を6人家族の住屋にした。もちろん祖父の承諾の上。うちの母が先ず思い付いたのは、客を増やすため、貯金を叩いて、日本でまだ出始めの最新「テレビ」を買って店に据え付けた。そしたら客が来るやら入るやら、店は満員。身動きも出来ない? 程になったと言う。子供どころじゃあない、子守り、事業員を雇いの理髪店。夫婦で理髪店てんてこ舞い。
 祖父は喜んでくれたが、嫉妬心はすぐ近くにいた、兄嫁と祖母だったらしい。長男の兄は大工の職を持ちながら、あまり真面目に働かず、やる気がない人だったので、職は続かず、町から来た兄嫁さんは、家の遣り繰りに苦労をしてたらしい。祖母と良く合い嫉妬心が強く、父が小遣い上げても、祖母と兄嫁はまだモンクを言っていたらしい。
 ことの問題は、祖父が死んでからだ。親類同士の大喧嘩が始まった。電気、水道の元線が一緒で、敵はこれを利用して客が一番多い時に限って電気の「元」を切る、嫌がらせをしはじめた。1回、2回、ケンカ。そんな嫌がらせが続くと、終いには大喧嘩。廊下で遭っても物も言わない敵となる?
 死んだ祖父は、叔父の長男には本家、次男の父には横の納屋(床屋)を、と言って死んだ。だが、本家の嫁はそんなこと聞いてない‼️と一点張り。昔は遺産相続権の書類など無いし、法律もわからない島人間。 父の母まで自分だけの老後を庇い、長男の嫁の味方についたのが、父にとっては母親に裏切られ、凄くショックだったらしい。
 「もう絶対に日本に帰らん❗」。「こんな小さな所も要らん。ブラジルに行ってもっと大きな土地を買う❗」。意地を張って見知らぬ国に来たものの、泣いて故郷を出らざるをえなかった姉は、それから7年後に白血病という病気で19歳という、若い命で天に先立ってしまった。
 お棺に入った姉の顔は、埋めてしまうには本当に惜しい、まるで眠っているような、綺麗な死顔だった。一番器量も頭も良い姉は、ブラジルに来て中学へも行かしてもらえず、近所の植民地の叔父さんが、わざわざ家まで来て父に言いに来た。「益本さん❗今から10年後の事を思ったら、子供に勉強させておかないと、ダメだよ❗」。だが彼女は中学校も、洋裁にも行かせて貰えず、父の右腕として家族の犠牲になった。姉はただ隠れて泣いていた。いや、生きる希望を捨ててしまった?のかも、、、、
 *水前寺清子という歌手が「涙を抱いた渡り鳥」「いっぽんどっこの歌」「三百六十五歩のマーチ」の文句が大好きで、自分をよく励まして歌ってました。*
 後で風の便りで知った事だが、自分達が出た後、本家の兄嫁は、みかん畑で犬に噛まれて死んだと言う、、、。
いっぽんどっこの歌                                                 涙を抱いた渡り鳥
三百六十五歩のマーチ
第3部(トラックの上の思い出の歌)。

​ 
ブラジルに来て最初に働いた森川農場は丁度、Anhanguera 街道の18km。現在は、もう、工場地帯となっている。当時、森川氐の土地は農業、養鶏、花、養豚 と仕事は山ほどあり、私の家族は働き手が多いので喜んで下さった。
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ブラジルで農業移住者一を、
引き受けてくださった、広島県出身の    (森川郡司氐) 。    
森川氐、写真左側
(母は森川氐の孫をだっこ)
 姉と私は、半日、お隣の大牧場(何百アルケール?)の中にある、小学校に入れてもらった。小学校?のやり直し? とは、情けない。(日本の卒業証書は通用しないらしい、)。当時、その大きなファゼンダには、雇い人の子供(7歳からー14歳)の子が30人以上もいた。
 Lapaからバスで通って来る先生を、大牧場の主人の命令で、トラックの運転手が、先生を毎日、バス停留場まで向かえに来る。姉と私はトラックの後ろに乗せてもらって通った。その学校とやらに行ってみれば、なんと1年生から4年生迄、みんな同じクラス?。机の 列で、学年が違う。黒板は壁に2つ。先生は1人で全部受け持ち。(ハー~!??)。昔、母が話してくれた、日本の田舎のお寺の尋常少学校と同じイメージ ?。
 ブラジルは日本よりも、50年遅れているような気がした。ローマ字、算数、かけ算は、すでに日本の小学校で十分学んでいたので、ブラジルに来ても、別に不自由はなかったが、落第するのは日本人の
"恥"だと思って頑張った。
 肝心のトラックの上では、毎日姉と二人で大合唱! 姉は日本の学校で習った歌、曲、知らなかった歌を、全部私に教えてくれた。私の貴重な思い出の時だったのかもしれない。毎日、トラックの上で、歌って帰った思い出の歌。
「*一週間/ダークダックス」「*東京おリンンピック音頭」「*喜びの歌/ベートーベン」
「*The sound of music (ドーレーミ)の歌」「*富士の山」「*花」「*茶摘み」「*埴生の宿」
「*冬の星座」「*線路は続くよどこまでも」「赤とんぼ」
一週間 ダークダックス
東京おリンピック音頭
喜びの歌 ベートーベン
The sound of music (ドーレーミ)の歌
富士の山
茶摘み
埴生の宿
冬の星座
線路は続くよどこまでも
赤とんぼ
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 二人で歌う2重合奏は、たまにハーモニカと笛を入れた。 飛んで喜んだのはトラックの前に座ってる運転手と学校の先生。珍しい知らない外国の歌を聞いて喜んだ。悲しいとき歌わない日は、 先生は後のガラス窓を、コンコンと叩いて「今日は何故歌わないの?」と、催促した。
 数えたら、もうキリが無い。小学校で習った曲から、昔聞いた歌、自分達の心の中にある歌は、全部、
はたして日本の故郷まで、あの島まで、姉妹の歌声は届かなかったのだろうか 、、、、 ? 。
先生達、聞こえなかった?一緒に学んで 遊んだ友達たち、みんな!私たちが歌った声は、地球の裏、日本迄、届かなかった ?

  皆様、長い下手な私の文章を、お付き合いくださり、本当に有り難うございました。又、特に、石田氐、私の「思い出の歌」、として心の中にあるモヤモヤ?を吐き出す、機会を与えてくださった事を、心からお礼申し上げます。
 本当にあがとうございました。
 
  2022 年 6月26日     (澤里(益本) 利代子)

*下記(このアルバムは、小学校の先生全員が、日本の最後のお別れに、姉がもらったものです)。
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2022年の私です。澤里 利代子
久しぶりです。今日、弾いてみました
   Adágio em sol menor.
     一曲どうぞ。 
WhatsApp Audio 2022-09-08 at 13.25.46
今日は2曲弾きました
竹田の子守歌
WhatsApp Audio 2022-09-09 at 12.12.40
花嫁人形
WhatsApp Audio 2022-09-09 at 12.16.34
​愛燦燦
 1982年に父が死に、田舎に住んでた母と兄(自閉症)を引き取り、町で養う為、事業団を辞めてNEC に入社. 小さなキッチンを借り、家賃と他の出費を払ったら、大学に行くお金が残らないギリギリの生活で、学ぶのも辞めました。
 当時,  NecのAssistência Técnica は, Av.Jabaquara /Saúde にあり、(現在は大学のビルが建っている)。まだコンピュータがない時代で仕事が山ほどありました。そこで石田さん、高鹿さん、樋口さん、たまに、リオから高木さんが来られていました。
 Paraíso 区に移った時は、リオからは和田さんが来ては、自分の昔の若い頃の「物語」を?話されては、帰ってました。多分、日本語が私と話やすかったのでしょうが。
 それから結婚。子供二人目が生まれる前、長男が自閉症(2歳半)と判断。 当時の治療方はまだ浅く、学校も医者も、確実な答えは見当たりませんでした。自分の子の心は、母親しか見抜くことが出来ない?。自閉症であろうとカタワであろうと、見えない30年先を思うと、もうお金より過ぎ行く時間、一日一日の「戦い」の問題だと思いNecを辞め、色んな自閉症の本を日本から取り寄せ、読みあさり、「ボロは着てても心は錦」、、ってな調子で一生懸命育てました。
 学校は普通の学校に入れ、スパルタ式。もちろん、ちょっと違うから、随分、ブーリンにもあいました。が、いずれ一人でこの世で生きて行くよう、家で柔道?  当時は自分の髪も、とく暇なんかありませんでした。
 (泣いて帰るな❗泣かしてこい❗正当防衛だ!)、学校も6回転校。最後のルーテル学校が一番良かったですね。
 今36歳、仕事につき、何でも全部一人で出きる大人になりました。昔 の涙は、今「蕾」として、彼の人生で咲くことを信じて止みません。息子は人間の「目」に見えない、内的な障害者として不幸かも知れませんが、もし、私たちが普通の家庭で問題の無い、すべて万事成功の家庭だったら、普通の人間には想像も出来ないほどの、深い愛に触れることが、多分出来なかった事でしょう。
 彼を育てながら、つくづくと身に感じさせられた事は、子供の純潔な心でした。子供との出会いを通じて、人生の生きる理由を、反対にこっちが、学ばされたようでした。
 ただ、学んだことは、障害児と生きることの勇気。そして子供の成長を通じて本当の教育の本質とは、愛と理解、そして指導方だと学びました。熱意だけでは障害の治療と改善にはならないことも。家族の中でその子を支えようとする「力」が生まれた時、障害のある者は発達すると学びました。
 今100歳の母も、陰ながらよく手伝ってくれたことに、感謝してます。

 
​いのちの理由
生きるものの歌
息子と主人です
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 母の人生も皮肉なもので。彼女の若い時代は、満州事変から、 支那事変、大2次世界大戦と戦争ばかりの時代だったそうです。「蘇州夜曲」「歌を忘れたカナリヤ」を、よく歌っては、昔、原爆で死んだ夫(渡辺)の事を思い出し、私に語って涙ぐんでました。
 好きで結婚した夫なのに、縁が無く、3年目にやっと初めての子(姉、ヤエ子)を身ごもったが、皮肉にも、そのお腹の子は予定日が過ぎても中々生まれず、夫(渡辺)が広島の原爆(8月6日)で死んだ後、丁度1週間後(8月13日)に生まれる。あまりにも皮肉すぎる「誕生」です。
蘇州夜曲
歌を忘れたカナリヤ
 戦争に5年も支那に行っていた父(益本)は、日本に帰って来た時、原爆の後の広島駅から港が丸見えの、町全帯焼け野原には、ビックリしたそうです。
 そんな戦後の時代の、どさくさ紛れに、父(益本)と母は知り合い、3才だった姉(ヤエ子)を連れて再婚。子供が次から次へと生まれ、苦労ばっかり。
 最後の末っ子の私を産みたくなくて、3回も降ろしに行ったそうですが、失敗に終わり、等々、私が生まれたわけです。私たちは悲しみ、苦しみに有っても、今日、まだ生かされている命、神に感謝しています。
時代
生きるものの歌
​You Raise Me Up
澤里母.jpg
来年、1月に101才になる母と、11才年上の姉です。
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