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   森田 幸子  

 オルゴール     19/05/2022

 私達八人兄弟、四男四女、清兄さんは、私より四つ上で上から六人目、それはそれは、美男子で俳優の葉山良二にそっくりで、葉山良二の映画を観ていると、兄ではないかと思う位似ていた。
 生まれつき体が弱かったか知らないが、兄だけ母は(カン油)で丸めた薬か栄養剤か知らないが飲まされていた。朝も生タマゴを熱いご飯にかけて母は兄に特別栄養を食べさせていたのを思い出す。一年生から、九年生まで学校の級長を勤め、野球部では(キャッチャー)をしていた、それで勉強している姿は見た事もない。集落で一年一度の芸能祭には(白いパンツに黒のごまいりパンツ)をはいて(白地に、黒くノミの糞付けて、ああいやらしい、私のパンツ)二回歌い年寄りから大喝采でした。
 田舎であの時代、私立高等学校に通う青年はなかった、二十五キロ離れた(西脇高等学校)集落(100戸)でも初めての高等学校生徒だった。詰め襟の制服に帽子、それは、それはイケメンだった。一台のバス一日三回位しか通らないバスで通学……

 西脇高等学校を卒業されて神戸の(川崎重工)に就職された。その時、4畳半の、寄宿生活、田舎から出て行かれたのです。お盆、お正月に帰られる時、私達や、お母さんに珍しい物、私には水色のカーデガン、兄が帰って来る時それが何よりの楽しみだった。お盆休みには従兄弟達とピンポンや、将棋、みんな兄が教えてくれた。冬休みには従兄弟達が多いのでトランプ遊びに、カルタ遊び楽しい思い出です。四畳半の部屋で九州から来られた青年と二人部屋の生活をされていましたが、その青年が(肺結核)に罹り故郷へ帰られた。その時に兄に移って(肺結核)を患われた。その頃、母が、暑い夏だったが(急に顔面神経痛)を患われた。遠い氷上群の(針)に通われたけど完治する事なく歪んだままだった。後から判った事だけど、その時に兄の(結核入所)の知らせを知らされた時だったのではないかと思う。母は私には知らせ無かった、心配のあまり(顔面神経痛)になられたのだ……

 それを知ったのは、私がブラジル行きの通知を受けた時で兄さんにお別れの挨拶に行きたいと、三田療養所の住所を聞き、兄さんを訪ねて行った。福知山線、三田療養所、三田行きのバスに乗り、くねくねとした登り坂の頂上に療養所があった。秋でカエデの木の葉が紅く色づいていた。とても静かな所、清々しい空気……私は兄に面会したいと受け付けに話した。11時過ぎていた、昼食後は検診がありますので少しの時間だけですよ!兄の部屋に連れて行って下さった。

 突然のお見舞い、兄は吃驚しておられた、大変喜ばれた。私がブラジルに行く事すら知ら無かったようです。その時に兄さんが精を込めて作ったオルゴールを下さった。美しく出来上がっている(オルゴール)、菱形の木彫り茶色の25センチ位の大きさで曲は「
はにゅう)宿」 私が、12さいの時観た(ビルマの竪琴)の映画の……こんな立派なオルゴール、どこを探しても見つからない、それは、それは立派、早く元気になりたい、祈りを込めて作られたオルゴール……

 このオルゴールは淋しい夜の真っ暗な谷間で、神秘なまでも (埴生(はにゅう)の宿の曲)が小川のセセラギと共に、毎夜私を慰めてくれました。子供達の子守歌として、毎夜、毎夜ランプの灯と共に私達を癒してくれました。あのオルゴールが私達家族を見守ってくれたのです。兄の結核(肺病)をなぜ母は私に知らせ無かったか?あの当時(肺病)は(治らない病気)とされていた。母の弟(19サイ)妹(17サイ)も若くして亡く成られている(お金持ちの病気)とされていた。だからどれ程、お母さんは兄の病気を心配された事と思う。だから私には知らせなかったのだろう……

 兄は私の神戸出港には見送り来て下さりあの当時カメラ(キャノン)一番上等のカメラで、最後の写真を友達や家族と共に写して下さった。五色のテープで別れを告げた。その後横浜港までわざわざ焼き増しをした写真を渡しに、夜行列車で又見送りに来て下さった。私はびっくりした。沢山の写真とカメラも……その時、ハーモニカも贈ってくださった。何処までも、私を思い(妹との絆) 私は船の甲板で (埴生 はにゅうの宿)の曲を心行くまでハーモニカを吹いた。

 谷間でもハーモニカを吹けば元気が出た……今又、あのように(幸子さんの日記)兄が作って下さり、日本に居る子供達の(三人)の親代わりとしてお世話になっております。今の世の中、親子でも絆が薄らいている日本、私達兄弟の絆は薄れる事は無いのです。あの宝物のオルゴール、淋しい夜を癒してくれた、子供達の子守唄として、夜、夜オルゴールの唄はあの谷間に流れたのです。そして私達家族を見守ってくれたのです。かけがえのない、真心の贈り物オルゴール……この曲と共に、身寄りの無い私は強く、強く生きて来たと思います。オルゴール……ありがとう!!

  ★残念ながらあのオルゴールは田舎の家が突風で壊された時に何処に行ったか分らなくなり
   ました。
埴生の宿

    終活   2022/05/25

 私は、昨日お友達の(エズマソン)に同行させて頂いた。昔し勤めていた会社です(メモリアル、パルケ、パウリスタ)の(お墓)​はすっかり新しく造り直されて近代化されていました、まるで病院並みで昔の(水槽)は無くなっていた。働く事務員達も皆さん若い人達で私の知って居る人は誰も居られなかった。時代の流れです。多くの知人がここに眠むって居られる、私は一人心で祈りを捧げ乍ら、お墓を一周りした。私もここでお世話に成るのだ……と思い乍。

 

 人間は明日の命は誰にも判らない。私は以前(同級生からのプレゼント)(金の首かざり)をして曾孫を抱いた時、引っぱって切れた。それを3年振りに修理して頂き、今日、受け取ることが出来た。日本のお世話になって居る方に、私の作った(レース編みのナプキン、とカフェ)を日本に送り届け、少しずつ自分の終活の整理にかかっています。

 

 整理しているお手紙の中、私の人生を大きく変えて下さった、紳士のお手紙を読み返し乍……まあ、何と美しい……人生には、こんな美しい出会いもあったものかと……今だに時々美しい日本の風景をビデオで撮影して送って下さいます。まあーなんと幸な日々自粛生活だった事だろう、私の人生が、胸に支えていた何かが一度に文章で綴れたのです。笑う人もあるだろう、感動して下さる人もあるだろう。私の人生を大きく変えて下さった紳士、ブラジルに来られた時には、私にぜひ一報下さい。

 この曲(星影のワルツ)……を一緒に歌える日を夢見ております。(この星影のワルツ)を日本に居られる紳士に贈ります。「遠くで、祈ろう、幸せを!!」「今夜も星が降るそうだ!!」

星影のワルツ
 谷間での楽しいひととき。育ちだかりの子供達、夕食後一人一人が、楽器を持ち(鍋のフタ、空き缶、タンボリ、お皿を叩く)先生の大好きな、「月の砂漠」 小川のセセラギと、ランプの灯と共に、私が、歌う月の砂漠は(ジャジャジャジャん)はるばると(ジャジャジャジャん)と間伴奏を入れてくれる。真暗い谷間に、ランプ灯と共に、月の砂漠の曲が流れたのです。忘れられない、楽しい貧乏生活でした。
月の砂漠
 懐かしい、同級生達、集落で男10人、女10人、クラス42人中集落(大屋)で半数占めていた(産めよ増やせ)の時代の私達、、、とうとう八十も過ぎました。皆さんお元気ですか?故郷を偲び、この歌を聞くと涙がながれます。
 ホーホー蛍来い、あっちの水は苦いよ、こっちの水は甘いよ、、、わが家の横には、川が流れ大きな橋があり、夏の夕涼み、あっち、こっちから人が集まり、蛍狩り、、、この歌を歌い乍、多くの蛍を取り夜蚊帳の中に、放したものです、川一面、蛍が飛びかよう、あの光景は忘れられない、何とも言えない神秘な気持ちになる。二度と出会う事はないだろう、、あの昔の蛍るの舞いを、、、
 私は船の中で、二十才の誕生日を向かえました。昭和の思いでは同級生達、列になって学校の行き帰り、その小学校も十年以上前に廃校になったと聞く。集落の男十人、女十人、、、私の里帰りには、皆様集まって下さり、歳こそいっていますが、懐かしい友達です。その時に金の首かざりの贈り物を(プレゼント)して頂きました。それを着ければ(貴婦人)の境涯です。そして(お守りです)。
 この歌(昭和流れうた)(森進一) (遠き昭和の)(五木ひろし )の歌を聞けば涙が流れます。昭和の友よ!いついつまでも青年で、、、
昭和流れうた 森進一
遠き昭和の 五木ひろし
 昭和、平成、令和を生きる (森進一)

 素晴らしい歌、皆様この歌聞いてください。昭和、平成、令和と生きて来た、私達その詞そのものです。わずかな事でも、後の人生変わるものです。この歌聞けた事感謝です。有り難う、涙がでます。
昭和・平成・令和を生きる 森進一
   時の流れに身をまかせ (テレサ・テン) 

 この歌は私が歌う歌です。「あっち向け、ハイ」、「こっち向け、ハイ」、と素直に従ってきた妻…… 一度も誉められもせず、一度も好きだ、愛してる、綺麗だ、の言葉も聞かず、日本の男を信じ……貴方の色に染められた女……それは私です。貴方のお陰で、強くなりました。懐かしく思い出します、あの頃を……。
時の流れに身をまかせ
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