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   皆川 雄 

 昭和44年1969年4月の事でした。誰でも忘れられないあのリオのガレオン空港のむっとする暑さ。カリオカの言っている事が全然判らなく、ただ“ポー、ポー”と、しか聞こえません。
 ペンタコンタ(電話交換機)は初めてだし、ポルトガル語は判らないし、まあ楽では有りませんでしたが、リオ は良い所でしたね。景色は良いし、食べ物は美味いし、  カリオカは綺麗だし  、給料は悪く無し、で。さらに、なんと言っても責任の軽さです。日本では納期だ、予算だ、公社の監督だ、上役だ、と息のつく暇も無かったのが、ただポルトガル語とペンタコンタ(電話交換機)の勉強だけですから、楽しかったですね。おかげで給料は全部どっかへいってしまいましたが。

 リオに来てからは皆同じようなものでしょう。私の場合はリオに始まって、ブラジリア、マリリア、ウベランジア、リオグランデ ド スールと渡り歩いている内に、重い荷物を背負う(Casado)ことになったりで、 又リオに帰って来て、最後はブエノスアイレスで。ペンタコンタ一筋、リオに帰って来たら、既に居る場所が無く、はぃさようなら。でスタンダードの12,3年は終り。旅又旅の(と言っても半分ぐらい)給料暮らしは終り。  

 さて、 とブラジリアの尼崎さんの所でPBXを一年ぐらいやりましたが、どうも実入りが少ない。 それでサンパウロに出てきて、ボビエルとタンデムの下請け。此れはもうごっちゃ混ぜ、何でも有りで。まず交換機関係ではエリクソン、ペンタコンタ、NEC。MTS(セルラー)、EMBRATELはトランスミッソンと兵隊さんを何人か使ってですから、これは、もう電話屋では無くて、税金と給料の仲介者。  

 まず親会社よりお金をもらい、税金を払う、(此れが腹が立つほど沢山有って)。 そして兵隊さんの給料を払う、残ればそれが私の取り 分となる。良く言へば、皆んなに給料を払い、 税金をちゃんと払う、 世の為人の為にやっている。悪く言へば“ピンハネ”となります。そんな事を旅をしながら、(やっぱり放浪癖は直らず  サンパウロ州、に始まりバイア州、リオ、ミナスもちょっと、パラナ州と渡り歩く。)

 20年近くやった事になります。その間、妙な事も有りました。何時でしたかバイア州の田舎町の仕事をしていた時です。部品が足りなくて隣り町に在るテレバイアの倉庫に向かっている時です(80か100Kmぐらい)。運転していると眠くなるので、大声で歌をうたいます。その時は思いつく限りの歌を歌い尽くし、 何気なく昔兄貴が会津中学に入ったばかりの時歌っていた学校の校歌を歌いました。そうしたら涙がポロポロ出てきて止まりません、 拳で霞む目を拭きながら何分間かを走りました。如何して涙が出たのか判りません。18で故郷を出てからこの歌を歌ったのは1度か 2度目です。涙が出るなんて、こんな事はかって無かったのに不思議な事です。 

 但しあの涙は心地良いものでした。そして、2002年から3年にかけて、仕事が全然無くなり兵隊さんを全 部自由にしてやり、 会社を閉め(これも大変、一年位かかる)今は年金暮らし。ブラジルの年
金制度は素晴らしく、公務員には大変良く、我々民間には雀の涙。せめて象の涙ぐらいになればと思っても夢の又夢でどうにもならず、 楽しくやってます。

      平成16年6月 吉日 ブラジルはサンパウロにて   皆川 雄

 

 では 蛇足ながら、私の涙を誘った歌の歌詞を記します。学校は旧制の中学です。      

   飯盛山の 桜花         

   鶴ヶ城跡の 秋の草

   会津平野を 行く雲の

   移り変われど 若人の

   理想は永久に 変わらじな

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現在は會津高等学校校歌
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