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   別れの朝  末定  いく子
 

 二〇〇三年十月二十三日、私は、日本武道館の舞台に立ち、民謡「宮城長持ち唄」を唄う事が出来た。それは、民謡を習い始めた頃からの夢の舞台が叶った瞬間だった。

  私は二人の娘等が自立した後、兼ねてから習おうと決めていた民謡教室に入会した。教室には常時、平均年齢八十歳の民謡愛好者十五、六人が集い、熱心に稽古に励んでいた。私とは親子ほど年の差のある方々ばかりだったが、歳の差など微塵も感じさせない和気あいあいの雰囲気が心地良く、週一度の練習が待たれた。
 

  毎年五月、民謡協会では、訪日を掛けた大会が開かれ、優勝者は日本の民謡協会主催の民謡大会の舞台で、特別出演として唄わせてもらう特典があり、既に数十人の先輩が、その特典にあずかり訪日を果していた。私も二〇〇三年度大会に優勝して同年十月、武道館で開催された民謡大会に招かれて夢の舞台に立ち、唄う事が出来たのだった。が、その歌声は奇跡に等しかった。
 

 その五年前、私は甲状腺癌の為、病巣の除去手術をしたので、快癒したものと疑わなかった癌の転移が、その年の検査で見つかり「ヨードハジオテラピア、放射線と同種」が必要と診断されて、六月、急遽五日間の隔離入院をさせられて、強烈な放射腺治療を受けた結果、食欲不振と酷い倦怠感に翻弄される日が続き、家族は勿論、知人も私の訪日を危ぶんでいた。しかし、武道館で唄えるチャンスなど、この先、二度とあろう筈もなく、この痩身に鞭打ってでも「行く」と私は決めていた。その信念が功を成し、十月中旬に訪日は叶ったが、体調への負担を考慮して宮城の実家へは直行せず、恩師の紹介で訪ねた東京下町の「お寺」に旅装を解いた。
 

 大会当日、お寺の住職ご夫妻に背中を押されて、秋晴れの中をいさみ武道館に向えば、朝一番の新幹線で出て来たと、宮城の兄弟姉や甥など総勢二十人が、前列の特別席に居並び私を待っていた。「妹を支えねば」との真心から遠路遥ばる駆け参じてくれた後期高齢者の兄や姉達が、只々有り難かった。 着物の着付けが不慣れな私に、着付け教師の姉の指示で六人の姉達は、私を着せ替え人形さながらに操り「あれやこれや」姦しく語り合いながら着付けをしてくれる。そんな姉達の成すがままに身を任せて「幸せ」って「こんな他愛いないものなのね」と私は心が暖かくなるのだった。
 

  私の出番が来て、司会者に促されて舞台中央に立ち、ブラジル代表等と紹介をされる中、緊張もほぐれ、有名なプロの尺八奏者の伴奏を受けて、宮城民謡の代表曲「宮城長持ち唄」を朗々(ろうろう)と唄う事が出きた。
 

 施術後、術部と上皮が癒着した事で、力の入る民謡を熱唱している最中に突然、喉に締め付けられるような圧迫感が生じ、全く唄えなくなる事態が頻繁に起きており、この晴れ舞台でも起こり得る「喉締め」の不安を抱えて、臨んだ出場だっただけに、数千人の観客と前列で頑張れエールを送る兄弟姉達の前で、最後まで唄い終えた喉が「奇跡」に思えたのだ。
     

 その後、親族等は武道館から程近い靖国神社を「私のお陰で詣る(まいる)事が出来た」と大満足し、プロの料理人に劣らぬ腕を持つ、千葉の義兄家に寄れば、座敷に広げられたテーブルには、見事な日本料理の品々が並び、一行(いっこう)の帰宅を待ち受けていた。
 

 その夜、ブラジル在住の私には、十人兄弟姉全員との集いは、数十年来であり、飲んで食べて歌って踊って、雑魚寝しながらの語らいは朝方まで尽きなかった。 翌朝、田舎組一行(いっこう)と新幹線に乗り実家に帰省すると、九十五歳の母が戸口で私の帰りを待ち構えていた。気品と頭脳明晰を兼ね備えていた母も、年齢と共に老婆化が進むも、毅然とした姿勢は変わらなかった。

 

 私の舞台姿を収録したビデオを見乍ら(見ながら)「ブラジルさ行ったお前が一番心配だが、日本まで、唄いに来れたお前は親孝行者だ」と大(おお)喜びしてくれた。酷い腰痛の母を、武道館に同行しなかった事に、兄弟姉全員が悔やんでいたが、ビデオを見て喜びの涙を拭く母の姿にみんな「ホッ」としていた。そんな私の訪日が、母や兄弟姉達に、つかの間(ま)の喜びをもたらした事が本当に嬉しかった。
 

 帰国の前夜「もう帰るのか?、まだ泊まってろ」しきりに哀願する母に、座敷に呼ばれて行くと、凛と正座した母が、綿入れの袂から取り出し「これで孫達に何か買ってやれな」と渡された「のし袋」には十万円入っており、「これはわしの形見だ」と丸めた広告用紙も手渡された。それまで、幾度も訪日し、その都度、「わしが農協に貯金していた金だから、誰に遠慮は無いぞ」と、数十万円持たせてくれたが、老母に大金を貰うなど心が痛み「母さんに使ってよ」と一応、辞退はするが、手はお札に伸びていた。そんな自分に嫌悪するが、意に反して、お札は私の財布に納まるのだった。が、その夜は「貰っては恥じ」と胆に銘じ、手も伸びる事はなかったが、「喜んで貰うのも親孝行だべ」と語る母に絆されて貰い受けていた。
 

 十一月初旬、粉雪が舞う帰国の朝、感極まる母との別れが辛くて、母の寝ている間に家を出ようと、兄夫婦と車に乗り込んだ時、素足に下駄履き姿の母が車窓に駆け寄って来た。「身体(からだ)に気を付けろな、孫達を立派に育てろよ、達者で暮らせ」矢継ぎ早に訴える母に、昨夜「お前とは、此れが今生の別れになるべな」と寂し気に語った母が重なり、私は、咄嗟に車から飛び出して、あらん限りの力で母を抱きしめていた。
 

 凍てつく寒風の中に仁王立ちとなり、去り行く車に手拭いを振り続ける母も白寿に近く、この先、再会する日が来ようとは、私にも思えず、辛く切なく「断腸の思い」を実感する「別れの朝」だった。その三年後、母は九十八歳の天命を全うした。
                

 あの夜、母に貰った十万円は使えずにいたのだが、東日本大震災を受けて、全てなくした兄弟達に三万円ずつ送り、残った四万円は今も使えず宝石箱に納まっている。そして、形見と渡された広告用紙には、母の「髪の毛と手足の爪」が包まれており、その紙片には母の自筆で「お前達を見守っている」と書いてあった。形見は我が家の仏壇に納まり、私達の暮らしを見守っている。

  (楽書倶楽部 第三十四号  二〇一六年八月十五日)

宮城長持唄 
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