
谷間--1 5月10日 母の日 森田 幸子
貧乏人の子沢山、月に1俵のお米、20リットルの油、味噌5㎏、今から思えば吃驚する……、でも谷間の生活、楽しい毎日……、自然と共に……、
朝はニワトリのコケコッコーー、--、静かに朝が明けて行く、熱いカフェーとボリンニァ・デ・シューバ、子供達はそれぞれ学校へ、勤める娘も炭のアイロンを当てパウリスタに出勤、雨の降る日は長靴を履いてオニブスに乗る時は履き替える、長靴を山の中に隠して出勤し、帰って来る時は、お月様が真上、犬3匹連れて7歳の男の子を起こして二人で真っ暗い山道坂を昇って行くこと1km、山の中の木蔭に隠れてオニブスを待つ、7歳の男の子は眠っている、待って、待って、やっと娘がオニブスから降りてくる、お月様が私達の影を作ってくれる、親子が影踏みをしながら1日に有った出来事を娘は話し聞かせてくれる、帰っては露天風呂を温め夕食を温める、そして静かに1日が暮れて行くのです。
小さな子供たちは寺子屋式の教会の学校に通っている……6月フェスタジュニーナが有る……我が家の寄付のアボーブラ・ドーセがどっさりふるまわれ。その日は私も子供に返り音楽に身体を震わせる、交わす言葉は「会釈」だけ、言葉が判らないので微笑むだけですが、それでも皆さん喜んで下さる。又、この頃松の実を食べにパパガイオが群れを作ってやって来る。あの谷間が騒がしくなって来る。
あの谷間貧乏暮らしが一番楽しかったと母の日に電話を掛けて来てくれた子供達、日本にもパラナにも母の日の感謝の言葉……「貧乏暮らしが一番の思い出……
一番楽しかったと……」
近くに住んで居られた貴婦人の様なお婆さん(Sra Gersia)、何かあったら何時も訪ねて行き語りあい、慰めて頂いた人で、絵を描いて居られた、転居の際に絵を贈って下さった額が私達が住んでいた山の中の谷間の遠景そっくりの絵でした。この貴婦人 オーロ(金)の、揺り篭で育ってこられ方 お姫様だったそうです。心に一滴の汚れもない、白ゆりのような方で、不思議な、磁石、吸い込む、心のおばあちゃん……抱擁するだけで……私はなごむのです。不思議な縁でした。

見出し h5
谷間-2
谷間の朝の四時、ランプをぶら下げて、コツトン、コツトン、オラリヤのレンガを作る音……それから、ゆっくり 朝霧がベールを敷いてくれる。これは我が家の近所です。谷間で、粘土地が沢山有るのか知らないけど、オラリヤが4場所あり。
朝は賑やかで、子供達が列を作って教会の寺小屋式の学校に行く。我が家の子供も、列に加わる。雨が降れば、泥んこで車が登らない。 コレンチ(鎖)をつけて車が登る。
晴天には、悪さ小ぞうが、ロレマンで作ったスケートで、上から滑り降りてくる。我が家は、このオラリアから、100メ-トル入った、横道の家です。
毎週、金曜日、一人の老人が魚を売りに来られる、4軒のオラリアを廻って必ず最後に我が家に来られる。キツチリ5キロ計って持って来られる。時には売れ残り、全部置いて行かれる。 10キロの魚をリンパして針金に刺して ぶら下げて、桜干しにする……
子供達は何処に何があるか歩き廻っているので良く知っている。ゴヤバの季節には いっぱい毎日持って帰ってくる、ジャボチカーバの季節には、バケツいっぱい持って来てくれる……10メートル平方の木を伐り倒し、ターザン遊び、太い蔓で、代わりばんこに、ターザン遊び……子供達の元気な声を聞きながら、私はおにぎりと、魚(桜干し)とレモナーダを、持って行ってやる。
夕食前には、バケツ一杯に(ランバリ)200匹位網でとってくる。(マンジュバ)のように、丸ごと油であげ、一人が20匹位食べて、沼の蛙の合唱で、暮れていきます。
我が家から、50メートル離れた所に高圧線の鉄塔が建てられた。我が家の土地の真ん中を高圧線が引かれた。この、オラリア4軒(20家族)にも電気がついた。どの家も、テレビを買った。我が家も、地主に頼んだけど、引いてくれなかった。地権が無かったそうです……次男、三男、四男、ランプの谷間で生まれた。
ある日、大きな、カミニオンがこの細道に入って来た。くるりと回って、運転席から、モートルの音を立てながら(幸ちゃん、今日、ムダンサしているから、ポウセイロが、入ったらいけないから、家を見て下さい)。と、鍵を、運転席から、ポイと投げられた。(チアオ、チアオ) 大きな音を立てて、行ってしまった。我が家から、1キロ離れていた、Mさんだった。何の前ぶれもなく、鍵を渡されても……それでも、子供達、テレビが見れる、大喜び……
主人は出張で1ヶ月に一度しか帰って来ない……許可無しでは……それでも、子供達は、蟻の行列のように、それぞれ、枕と毛布と、小さな(バツテリア)で見れるテレビを担いで、ムダンサ……上の子供達は、学校が近いからと長いこと移らなかつた……
それでも、フォゴンを持って行った時からみんな移った。ガリンニア、ガンソが残った。私は毎日、餌をやりに行く。3日目、何も居なくなった。「ベンデ」の看板をかけて(ブラジル人)が売っていたそうです。誰もいなくなった家、泥棒がタンスとか何でも持って行きました……
テレビが見れるその日を境に(私が夜、夜話す昔話が無くなったのです)。次男は、(ゴムテッポウ)に腰には(小石)を下げて(宮本武蔵)のように、翔ぶ小鳥を打つ才能があった。フットボール、試合には、大人に交って、(13さい)の次男のゴール(チーム勝つ)……
あの谷間楽しい、思い出ばかり……「水が変われば……又懐妊」8人目……主人は(私のお腹にバツテリアをカレーガして……)
年末親睦パーティ 2020 03-04 日記より
一年一度十二月コンフラテルニザソン(会社の年末親睦パーティ)200名位の大きな忘年会、会社のオニブス2台、ジアデーマのシャーカラ……
社長、支配人が一年の労をねぎらい頑張ってくれたとの挨拶、十二月の結果が発表され名前を呼ばれて前に出て行く……
まるで学校の卒業式の様に……
十件以上売った人の名前が呼ばれ、私は五番目に呼ばれた、となりに立っていた支配人が私に「幸子お目出度う」と握手をして下さった。200人中、日本人は、私だけ、シュラスコ、飲み物、果物、の食べ放題、私は、ずっとブラジル人になり切って……私のメーザに支配人が座られた「幸子お前が売ったお客様は一番成績が良い、幸子のお客様は98%皆、払い込んで下さる、良かったな……今日もプレミオをもらって……」と激励して下さった。
社長さんも私の席によって来られて「幸子出席してくれてありがとう、来年も頑張ってくれ」と固い握手、激励の言葉を頂き私は嬉しかった。会社から頼りにされていると……
会社はアメリカ式か日本式か知らないけれど九時になると講義室はぴったり閉まる、一分遅れても部屋には入れない。いくら泣いても車がどうのこうのと言っても開けてくれない、九時から十時までの講義、
ジェレンチは売る事だけの講義、とても厳しい。勿論セルラーは禁止、十時になって講義が終われば講義を受けた人だけがその日の日給を貰う……一人一人サインをして日給を貰う、今ですれば三十コント(往復のオニブス代と昼食代)その日給で売りに行く。
講義室に入れなかった人は日給がない、どうしてオニブスに乗って売りに行けるか?私は何度も遅れた人、日給が貰えなかった人に(三十コント)貸してあげた。「後で売れた時には返して下さいよ!」私はオニブス代も要らないし昼食する位のお金はある。あの当時若い青年男女に(三十コント)が無ければどうして仕事に行けるかと、自分の子供のように思い何人もの人に日給と同額分を与えた「売れた時には返して下さいよ」と付け加えて……でも誰一人として返してくれた人はいなかった。これがブラジル人だ「貸し下され」感謝の気持ちは少しも持ち合わせてはいない……
すっかりブラジル人になり切って……でも私は感謝がある、社長さん「来年も頑張ってくれ」と固い握手して下さっただけで「よし頑張ってベンダ(契約)を取ってこよう」との気持ちになる、私は仕事に(パッション)を持った。
昨日売ったお客様には必ず会社のレシーボを持って行く、その時にはちょとした土産を持って……買って下さった人の名前住所、家族の方が保険に入って下さった時には、家族の生年月日を台帳に書き込む、今日は、あのおばあちゃんの誕生日だ……鉢植えのランの花(今ですれば五十コント)を持って「おばあちゃんお目出度う」……家族の方々は日本人から綺麗な花をもらって大喜び、親族が集まっている時をチャンスととらえてお伺いする。「おばあちゃんお目出度う長生きして下さい」この一言だけで私にも家族にも花が咲く……
支配人は私が上等のお客様に売る事を知っているので「幸子このプロモッソンお前だけまだ一週間期限を与える、誰にも言うんじゃないよ、お前だけだよ!」現金十回払い、私には一番売りよい値段、五か月前、一人のブラジル人が買って下さった時、会社の同僚がほしがっていると言われた事を思い出し、台帳の中からI氏の電話番号を探してお電話し、「憶えて下さっているでしょうか、〇〇〇の幸子ですけど」「憶えているよ、友達に話しておくから明日十二時に来て下さい。でもセン・コンプロミッソですよ!」と住所を下さった。
私は住所を片手に伺った、サンタ・セシーリアのお店、私は必ず買って下さると思い奥さんに鉢植えのビオレッタの花五個を持って行った……忙しくて話もできない、それでもI氏から信用がある幸子と聞いて、居るだけで、コントラートを出すだけで、皆自分で書き込み十枚の小切手、もう一人若い方は妻と相談して返事をしますと話された。……私はこれを奥様に持って帰って上げて下さい、私からのレンブランサです……紹介して下さったI氏にもビオレッタ、その日は三つも、それも現金十回払いで……
初めてサンタ・セシーリアの住所を片手にお伺いしたが私は訪問する際この人は絶対買って下さると心に決めて訪問する。一つの鉢植えのビオレッタの花が花を呼びお客様に好意を持って頂ける、これが日本人の心のおもてなし……
私にはポルトガル人、イタリア人のお客様が多い、日本人のお客様は避けて通った。私は「人のふり見て我がふり直せ」私は勉強させて頂いた、ポルトガル人イタリア人とても日本人を好いて信用して下さった。訪問した際応接間には一輪の花が飾ってある、「美しいですねー」と言葉を掛ければ「毎週フエイラで生花を買って来て挿して呉れるんです」と主人の笑顔、家庭円満をみる思いです。
ポルトガル人の家では必ず庭にバラの花が咲き乱れ毎日、今日は赤バラ、明日は黄バラ、と花瓶に挿してある、私を可愛がって下さった。娘さんの結婚式の招待状まで何人かの人にも頂いた。これも日本人のちょっとしたおもてなしの心が伝わったのかも知れない。私は楽しかった、お金で買えない大切な物を教わった。すっかりブラジル人になり切って仕事にパッションがある。「好きこそ物の上手なれ」…… 一人の人が「貴方にはドンがあるのですよ!」と言って下さった、うれしい言葉です、あれから十八年……
若しも私がまだ六十歳ならば素晴らしいセールスマン・パッションに生きていた筈だ。
小さな夢
15.01.2022
我が家の、中庭に、イぺーの木がある。私は毎日三回、落ち葉を掃き寄せる。風に吹かれて、チラリ、チラリ ゆっくり落ちる枯れ葉を毎日見ていると、私の人生と、二重写しになる……人生もこんなものだろう。静かに、チラリ、チラリと、散っていく、その後には、イペーの蕾が、暖かさを待って、咲くのを待っている……
今年のイペーは見事、真黄色に咲き、あれよ、あれよと見上げる間に、花咲 爺さん……今年も満開に咲くだろう。そして、花が散り始め、真黄色のジュータンが敷かれる……私の小さな夢。真黄色のジュータンの上を……チラリ、チラリ……
イペーの花ビラを肩に受けながら、白い帽子の上に降り散る花ビラ……幸せいっぱいの私……その横には、面識のない彼が、そーっと、肩にふりそそぐ、黄色の花ビラを、優しく、そーっと、私の目を見つめながら……取り除いてくれる時……やさしく、そーっと、私の指に絡ませながら……歩調をあわせ、無言の……午後3時の公園の、小さな夢の妄想でした。
ジャララカ
誰も住まなくなったあばら家、屋根の瓦を取ってこようといつも思いながら、なかなか、暇がない……それから、2年後赤ちゃんも、歩きだした。子供達は昔の家に、シュシュを、取りに行った。10才、8才、6才、2才の子供達(すぐに帰りなさいよ)ハ~イ……1時間、過ぎても帰って来ない……私は、胸騒ぎがした。(母親の、六感で何かあった……)直ぐに仏壇を開けて(何か、あった。お守りください)……私はあばら家へ向かって走って飛んで行った。子供達は、野イチゴを取り、スズメの巣の卵を数え、まだシュシュを探していた。私は、赤ん坊を、抱こうとして見た……声もでない……ガラ、ガラ、ガラ……シュシュの葉が揺り動いている。赤ん坊に30センチの距離、大きなワニのような……私は赤ん坊を抱き抱え、シュシュを探している四女に手招きした。(ママイ、ドウシタノ……)危機一発、……皆なに、ガラ、ガラ、ガラ鳴る声を聞かせ、皆で逃げた……蛇は私についてきた、犬が飛びかかつた。ジャララカ大きな蛇は、犬目がけて、飛びかかった。3メートル程飛びかかり、犬の首に食い込んだ……犬も、死にもの狂い……それを目がけて、次男が3メートル位の竹槍で蛇の腹を突きさす。私も蛇の頭を目がけて竹槍で突き挿す……勝負はついた……突き刺した腹から、大きなネズミが出て来た。まだ生きていた……一つ間違えば赤ん坊の、命が危なかった……犬は喰いつかれ、5日後、亡くなった。赤ん坊の、身変わりになりました。(可愛いそうに……)次男が、竹の棒にぶら下げた(2メートル)のジャララカを仕留めた自慢話です。私の(六感)(母親の感)親子はいつも、目に見えない何かに結び付いているのです。母の一念だと思います。「家は、人が住まなくなったら、倒れると言う……それから3日後、12年も、住み馴れた、あのあばら家は、豪風と共に倒れてしまった。蛇地主と、共に……。
金、一封(思わぬ礼金)
電気が有る生活になって、暫く一年が過ぎようとしていた或る日、高級車に運転手付きで、気品の有る女性の訪問があった。日本語も話せる中国人でした、その婦人は運転手に「二時間程したら迎えに来て下さい」と告げた。そして私に、「この土地を見せてもらいたいのですが………新聞広告に(家屋付き5アルケールの土地を売る)の広告を見ましたのでその土地を案内して欲しいのです」と頼まれました。
私はその婦人に、隣接地との境に植えてあるコッケイロの木や、ユーカリ林や、竹藪、それに栗の木が植えてある土地境を、妹のように、二人で肩を並べて、5アルケールの土地を案内した。甘柿、冬柿、銀杏の木、木蓮の木、静かな自然の環境を見てすっかり気に入られた。その時には山百合もいっぱい咲いていた。
次の日曜日、高級車四台で、ママイ、パパイ、叔父さん、叔母さん、従兄弟達がお弁当持ちで、この土地に建ててある母屋に行ってピクニックをされ、とても気にいられた様子、皆さん喜んで挨拶を交わし帰っていかれた。
又次の日曜日、中国人(シチンギ)が来られた。「この土地を買いましたので、今まで通り土地を見てください。私達は、母屋の方に週末に遊びに来ますから」。そんな事で新聞広告を見て買われたのです。
実はこの土地は1年程前に私達家族が住んでいた谷間の家に居た時に、近くに住んで居られたMさんが「自分たちは他の所へ転居(ムダンサ)するから森田さんの家族で私の土地と家をポッセイロ(侵入者)から守るために、この土地と家の管理(トマコンタ)をして欲しい」という事で母屋の他に建ててあった別棟の家に移り住んでいたのです。
次の日曜日、Mさんのお母さん、婿さん、達が訪問されて「幸子さん土地が売れました、土地を買主に案内してくれてありがとう……」と分厚い封筒を差し出された。「私は何もしていませんので、そんな物受けとれません」と戻しましたが、「幸子さん、子供が多いから何かに使ってください」と言われ、思いもしない(大金)を頂いたのです(コヘトール)代のお金……大変な、大金でした。
春には、筍、甘柿、冬柿、栗、銀杏の木、50年以上も前の方達が住んでおられたこの土地と家、私は木蓮、金盞花の、懐かしい香りを嗅いで、銀杏の黄色い葉を、踏みしめ、秋には、甘柿、冬柿、等を籠いっぱいに取り、日本に居るようで楽しい毎日でした。
2月になれば、あっちこっちの木々に囲まれた5アルケールの敷地内に白い笑顔が見えだす、山百合の花、気品のある姿、ススキの間から、私の誕生日を祝ってくれるのです。
夕方5時頃、鹿の親子が畑の頂上を、ゆっくり歩いて帰る何とも言えない(自然の愛の絆)………
2月の山里は、忘れられない、私の人生に刻まれています。
ヤクザの女将さん
ブラジルに来て57年目を迎え、あの花嫁も、今年では77才。お友達から喜寿の お祝いの言葉を頂き、紫色が喜寿の 祝いの色とされているとの事で、紫色を好んで着ています。
ある日30年來、出会ったことのない知人に出合った。私を見るなり、じっと私の顔を見ながら「(幸子)さんですか?」……それもそのはず、若い花嫁の時しか知らない彼、顔面神経痛を3回も患い、優しかった目はきつい目付きになり、外出する勇気もなく、すっかり、オバチアンになっていた私……
或るS氏の後押しで、月一回の会合に出るようになった。メトロに乗って行けるまでになった。彼いわく「今の幸子さんの顔はヤクザの女将さんの顔だ、ドッシリ構えてキツイ目付きで子分を操るヤクザの女将さんだ!」そうかも知れない……
怖い物がなくなって、どっしり構えるヤクザの女将さんだ!私はこの言葉嬉しく思った。一歩前進した証しだろう………そして生きて居る証しでもあるのだ!! 感謝しながら………
田舎との別れ、
1992ー3ー3
3月に入り一雨毎に、青々と野菜が育ち、私の懐も、肥っていた頃。3月3日に、突然、娘が孫を連れて我が家にやって来て。「お父さんお母さん、この日曜日に、カミニョン(トラック)で市内の新しい家へ引っ越しの為の荷物を取りに来ますから早く準備をしなければ駄目よ、と何の前ぶれもなく言われた。
それからが大変、100羽以上の(カイピーラ)鶏、買い手を見つけなければ……金持ちしか一度に払ってくれないだろうし。私は、勇気を出して、Mさんに事情を話してお願いをしましたところ。Mさんは気持ち良く買って下さいました。ヒヨコから育てた(カイピーラ)鶏、涙が流れました。毎日6ダース程、産み続けた(カイピーラ)鶏………
畑の野菜類の取りかたずけ、茄子、キユウリ、ブロッコリ、カボチャ、アボブリーニア、ジロ,等………引っ越しの当日、主人は、フォイセ(ブラジル鎌)で、青々と育った野菜を切り倒していきました。私は自分の体を切られるような痛みを感じ、耐えられませんでした。苗を作り、豊作を祈り、カボチャの収穫を待っておりましたのに………
ビシ、ビシ、ビシ、フォイセ(鎌)を降ろす音、耳を塞ぎたい………全部を切り倒し、カボチァの蔓を切り歩いた。見る間に、萎れ、青々としていた畑は、荒れ野原になってしまった。ああこれで、田舎とも、お別れか………
この土地に住み出してから7年になる、最初の年に生まれた末っ子がもう7歳(2年生)にもなった。他の子供たちもこの土地から学校へ通い、この田舎で楽しく遊び強く育ってくれた事を思い出す………
12時に迎えのカミニオンが来て、引っ越し荷物を積んだ後、犬、小鳥達も連れて出発した、結婚30年の息子達のお祝のプレゼントの家へ、私は後ろ髪を引かれる思いで山里を後にしたのです。
ポルトン・アウトマチコ(自動開閉門)
四女の初産、孫が生まれ、私は毎日バスの6ポントの道則を、歩いて通った。朝露を踏みながら、とても気持ちが良い。毎朝、小憎が一軒一軒に(広告のチラシ)を配って歩いている。「ポルトン・アウトマチコ」の取付けにこの用紙がある人には20%値引きしますと言って、私にも一枚呉れた。そのチラシで、どん、どん、あちこちの家では綺麗な新しいポルトン・アウトマチコが出来上がって行く。最近は何処とも治安が悪いので取り付ける家が増えているのだ。
毎日その小憎に出会うが一ヶ月後、我が家のバイホ(地区)にも配って歩いた。息子は我が家にポルトン・アウトマチコを取り付けるためのオルサメント(見積書)を頼んだと言ったが。私は息子に言った、お母さんの目の黒い内は、アウトマチコは嫌です、毎朝私がポルトンを開けて、「行って来ますー」と手を上げて行ってくれる、そして夕方無事帰って来てくれる、それがお母さんの一番の楽しみなのだ………
息子は、アウトマチコにする事を止めた。この治安の悪い世の中、あの一枚のチラシで、どこも、ここも、新しい、ポルトン・アウトマチコが取り付けられていく………
我が家だけポルトン・アウトマチコがない、その代わり(アウトマチコ)代として、封筒に入れた(小遣)が仏壇に置いてある。何処の家でもは見られない親子の絆です。
今日も「行って来ます」手を振って行く息子、ポルトンを、閉めながら、1日無事安堵で有りますようにと………何人子供が居ても、子を思う親の心………
大家族
我が家は大家族、主人が仕事の都合で我が家の近くを通る時には、ポン30個、モルタンデーラ5kg(大きな5kインテイロ)(ソルベッテ)2ダース、時には(スイカ)などを、置いてそのまま仕事に直通で行きます。
子供達はそれが何よりの楽しみで、今だにあの当時の事を思い出し、一家が集まれば、その話しに花が咲く、田舎の(とんど)焚き木のように木を集め、どん、どん、燃え上がった後、竹で串を作り、思い思いに、自分で肉を刺して焼きます。家族が多いので8キロの肉を、どんどん、赤、赤と燃える(とんど)で焼きます。
かがり火の側には、育ち盛りの、子供達がズラリと並び、自分で竹串に肉を刺して、顔を赤くしながら焼いている。その側には、犬たちも、お裾分けを貰うために、行儀良く、ちゃんと座って家族の一員のような顔をして座っている。
真っ暗闇の谷間の夜、赤いかがり火と、時々、フクロウの鳴き声、焼けた肉を、思い、思いに食べる。私はおにぎりと、大根の漬け物、エスカロウーラのサラダを作り皆と一緒に夜食を楽しんだ。今の親子の関係とは、かけ離れた、暖かい親子の関係でした。
主人の時たまの休日には子供達と、弁当持ちで魚釣りや、ピクニックに行きました。帰って来る時には、必ず、私に山に咲く小花の苗を持って帰って来てくれる。これが主人の、私に対する(心の結び)だったのだろう。
谷間の小川の側に、一本の、大きなトゲだらけの木があり、2月には真っ白い雪ボタンのような花が一杯咲く。子供達はその、トゲのある木に、ブランコを三つ作り木登りするから、その木はまるで(猿滑り)の木のように、つるつるになる、その下に、エンセラードを敷き、茣蓙を敷いて、木陰で子供達は宿題をする、その横には、柳行李の中で赤ん坊を寝かせ、子守りをしながら宿題をする。
清々しい無菌の空気、清い風、涼しい谷間、子供達は、はしかに掛っただけで、お陰様でその他の重い病気にはなりませんでした。この、コロナ禍の時代になってつくづく思う、もう一度帰りたい、あの谷間の生活へ、早くコロナ禍が終息して普通の生活に戻ってほしい。
友情(Amizade)1、
あるとき私に「どんな言葉が1番好きですか?」と或る方が聞いて下さいました。私は(出会い)と答えました。越し方80年、色々な方達との出会いがあって、生きているのだ。特に私は、お爺さん、お婆さんを見ると、情が移って、どうにもならない。お爺さんのお世話も(新聞広告)でさせて頂いた。お婆さんの、お世話も、させて頂いた。そして、今度は、私が(80才)、子供にお世話になる時代になってしまった。
私は、病気に伏した事があった、何も出来ない時(ナプキンのふちを、レース編みで編んで1人1人に(健康の証)として贈らして頂いた。友情(Amizade) 男、女を問わず、私は皆んな好きだ、嫌いな人は1人もいない。昔あの懐かしい谷間の絵を贈ってくれた、あのお婆ちゃんのように、人の心を、吸い込む不思議なお婆ちゃん、私も少しでも、あのお婆ちゃんの、磁石にあやかりたい。
多くのお友達を持つことは1番である、お金持ちに成ったと同じだと言う、私は大金持ちだ!
友情(Amizade)2、
昨日「貴女から頂いた月下美人の花が咲きました」蕾から一時間毎に咲いて行く様子をカメラに写し送って下さった、お友達!このコロナ禍の大変な時代で「会社」に何かあったようです。学校も休み、レストランも閉まっている大変だったようです。
仕事の出来ない中、クニャーダがコロナビールスであっと言う間に亡くなられ大変な悲しみ、自然の働き(ナツレーザ)は彼女に希望の光をそそぐように、二十一個の蕾を贈ってくれた。
「私は一夜限りの花です、頑張って希望を持って下さい」真っ暗い夜中に真っ白に咲き、薫り高き香を漂わせながら二十一個の月下美人の花が一斉に 「頑張りましょう!」「頑張りましょう!」「自然の力は貴女を一人にしないのですよ」さあ前へ!前へ!進みましょう!二十一個の月下美人の花が一夜にして彼女の背中を押して、押して、前へ、前へ、自然の力の尊さ、自然の絆………
胸がすーとするメールでした。 2月4日


言葉の花束
私は日陰で育った女性です。いつも隠れるように人前に出る事にコンプレックスを感じていました。
田舎家で一人の訪問者が有った時、野良着で姉さんかぶり、絣のモンペで汗をふきふき応対した。その時その人は私を見るなり「ワーア美しい」と声を上げられた。
恐らく彼は自然を愛するI氏ではなかったか!
年月は過ぎて喜寿の年、S氏は私に「自分の事を卑下し過ぎですよ、もっと人の中でボランティアに出て来なさいよ」と言葉を頂いた。
その言葉で(私の胸にパッと花が咲いたように)私に自信が付いた。何気ない言葉!そうか私は人並みの女性か、ならば卑下する事もなく堂々と前を向いて歩こう。
S氏が贈って下さった「言葉の花束」を胸に今から人生に花を添え輝きを増して進んで行こうと思います。
タンポポの笑顔
道のアスファルトの割れ目から小さな黄色い笑顔が見えた。あれは私の人生の荒波の真っ只中だった。毎日、オニブス(バス)を待つ私を勇気付けてくれた。人々に踏まれ車の排気ガスに吹きさらされ黄色の花が紫色になり、それでもしっかり根を張ってじっと頑張っていた。
朝8時の太陽を受け力一杯咲いていた。「幸子さん頑張るのですよ」小さな花はとにかく「頑張るのですよ」とほほ笑んでくれた。あのタンポポの笑顔がなかったら今の私はなかっただろう。オニブスのポント(停留所)に立つ度に私に話しかけてくれた「頑張るのですよ」花が咲き種が出来て、そよ風に吹かれながら子孫が増えていく。あのオニブスのポントはタンポポの花一面で花束も作れた。
焼け付きそうなあの暑い日照り、そっと木の枝を折って日陰を作ってやったタンポポ今はもう無い。でも立派な子孫が胸を張って立派に咲き誇っている。私もこのタンポポのごとく多くの子供を産み1人2人3人4人5人6人7人と巣立って行った。
そよ風に吹かれながら飛んで行く。その綿帽子が飛行機の羽根にでも落ちたのでしょうか?……あれから30年タンポポの種子はしっかりと日本の土地に芽を出して、しっかり可愛い黄色の花を咲かせ、人様に笑顔を送り種子が出来、日本でも子孫を残している。これは私です、月日の早さ、あれから30年。
早いものです。子供達も頑張っております。子供達が結婚する度に日本の兄弟達が親代わりに出席して下さり、日本とブラジルをしっかりと絆を結んで呉れた。ブラジル出稼ぎの30年です。その間神戸淡路大震災、東日本大震災の経験を通して「自然災害」で人の命の大切さを感じとってくれた事と思います。
長男は日本で結婚し3人の娘の父親で孫も出来ました。勤めている会社の社長さんの片腕として頑張っています。次女は日本で創価大学(通信制)を卒業し先生になっているそうです。今では二人の男子の母親です。三女は1男1女の母親で学校のPTAの副会長をさせてもらったそうです。
偉くならなくても人様に好かれる人に育って呉れている事が嬉しく思います。今コロナ禍で大変な世の中をしっかり乗り越えて呉れる事と思います。そして未来に向かって日本とブラジルの架け橋に成って呉れる事を願っております。
とにかく健康に気を付けて頑張って下さい。あのアスファルトの割れ目にしっかりと根を張って頑張っていたタンポポの花、そよ風に吹かれながら日本でも、ブラジルのパラナーにも、しっかり根を張って友好の絆を結んで呉れる事だろうと思います。
私は小さなタンポポの笑顔です 2月18日誕生日に記す………
影
私の人生には色々な方との出会いがあった。私達は出会いを結んで喜び生きているのだろう、月下美人の花が咲けばあの方を思い出す……朝顔が咲けばあの方を……梅の実なればあの方を思い出し、縦の糸は貴男、横の糸は私、会うべき糸に出会う事を幸せと呼びます……歌「糸の歌詞」
日本では春になると美しい桜が咲く、花見をしながら写真を撮りビデオを廻し送って来て下さる方、休憩しながら竹の筒からちょろちょろと流れる水の音、共に座って静かにカフェーを飲んでいる情景が写されている、私はこのビデオを見て癒されている……
或る日、美しい風景の「ドナウ川のさざ波」(ヨシフ・イヴァノヴィチ作曲)のワルツの曲が流れる、それに合わせて一人でワルツのステップを踏む、何とも言えないロマンチックなうっとりとした状態になる、縦の糸の貴男、横の糸は私、この小さなセルラーが地球を廻って、縦の糸になり、横の糸になり、時には心の傷を癒し、時には栄養剤となり、私を救ってくれている……
私は貴男の影で癒されています。
もしもこの小さなセルラーが無くなったら世界は闇に……
影を慕いて……
タンポポの花道
野に咲くタンポポ、真黄色い花を咲かせ、微笑えんでくれるタンポポも、色々な方達との出会いを結んで、お陰様で80才になりました。ブラジル日系文学の大御所、重鎮、梅崎先生から、こんな、立派な感激する短歌を、詠んで下さり、新聞(紙上に載っていました)と、前園さんから通知して頂き、感無量です。
……「庭すみに、タンポポ一つ咲きいたり、人目避ける如く、静けく」……
タンポポの花(私)も、昭和37年2月2日、日本を立って60年になりました。日本を立つとき、牛小屋の横の、梅の蕾が膨らみかけていた60年前、そのあぜ道にも、タンポポが、寒い小雪に吹かれながらも、私を見送ってくれた、森田家からの送りの三輪車に柳ごうり四つと、ミシン一台を持って、日本を後にした60年前、故郷、大屋で、母は気丈にも、涙ひとつ、こぼさなかった、反対に父は初めから、最後まで、涙、涙でみっともない位、男泣きで私を、愛の涙で見送ってくれた。
病身だった父は、最後の別れと胸に決めて辛かっただろう、私は今になって父の心情が判るのです。「貴方一人頼って行く娘を、よろしくお願いします、末長く幸せにお暮らしください。」父の最後の手紙をブラジルに着いてから、主人が見せてくれた。一通の父からの便り、あれから、60年、早いものです。浦島太郎になったようで……色々の方達との出会いがあり、80才を迎えました。
そして、人生で、一番大変な、荒波の中でも、アスファルトの割れ目に、しっかりと根を張って、可愛いく、黄色い花を咲かせ、私に「幸子さん頑張るのですよ!」「頑張るのですよ!」と激励してくれた野に咲くタンポポ、あの時、黄色の花の笑顔の出会いがなければ……どうなっていたかしら、私はタンポポを、胸にしめ、どんな事でも乗り越えてきた。今はあのタンポポに感謝を捧げたい。
タンポポも色々な方達との出会いがあった。(ニッケイ文学誌)に載せて頂いた(一滴の露よ!)の露が栄養となり、私に勇気を与えてくれた……又、楽書倶楽部の、石田様、前園様、身寄りの無い私には兄、姉に出会ったような思い、強い、安心感と、大きな希望を持たせて下さいました。
そして、日本の兄が作ってくれた「幸子さんの日記」日本との郵便のやり取りが儘ならない中「続、幸子さんの日記」を石田様がサイトに入れて下さり、多くの方達に読んで頂き、私は幸せです。これは、日本の兄(市位清)とブラジルの石田様(石田勉)氏の心の絆ですと、共に(楽書倶楽部)の三者の力作です。本当に有り難うございました。
コロナ禍による自粛生活を(タテ)に取って、タンポポの花は、ブラジル生活60年の、大きな花道を歩かして頂きました。タンポポの綿帽子は、(幸子さんの日記)サイトを通して、喜びの花道を歩かして頂いております。あの60年前の、山おく(笠形山)の大屋にも、届いている事と思うと、感無量です。お父様のような、梅崎先生、兄のような、石田様、姉のような前園様、日本と、ブラジルとの絆を結び、喜びの、花道を歩かして頂いております。本当に有り難うございました。タンポポの花、ブラジル60年の感謝のお礼の言葉です。皆さん、有り難うございました。そして、私の80才の、お祝いの花束なのです。梅崎先生が詠んで下さった短歌
……「話すこと何一つなし、お互いに、見つめ会いつつ、思いはたりる」……

