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1984年11月1​17日 日本カントリークラブにおいて
渡伯十五周年記念大会が催されました

その時を記念して発行された星座の会特別号です
星座の会特別号(第十
二号) 1985年1月発行

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   集まりました 同志と家族

 天が私達の記念日を祝福されたごとく、当日は好天気に恵まれ、午前中はリオ対サンパウロチームに別れ親睦ソフトボール試合を行いました。 両軍チームのピッチャーやキャッチャーそれに守備も抜群そのもの、打者は大物狙ってか大空振りをしたり、まともに当たっての大ヒツト々、アッチャコッチャと飛び回るボールを追いかけての大熱戦。試合を引き締める見事なホームラン

 

も飛び出し、選手諸氏も久しぶりの奮闘に汗ビッショリ。結果はリオチームが七対五て勝ち、ホームラン賞は富永氏が獲得しました。試合後、田中事務局長の司会により、山崎副会長の挨拶、当地で終生された仲間への冥福を祈って出席者全員による一分間の黙祷を行なう。 昼食は美しい日本のメロデーが流れる中、特別味付けのシュラスコやおいしいおにぎりそれに盛り沢山のサラ

 

ダをパクつきながらの飲み放題。 飲物をお互いのコツプに注き返し合うのを写真係がさかんにフラッシュ。遠路から出席された方々を交えて楽しい想い出話に花を咲かせる楽しい雰囲気てありました。 午後からは各氏が近況自己紹介や家族の紹介をしましたが、可愛い二世の誕生で将来頼もしい限りです。次いで沢山の賞品を揃えたビンゴケームでは、ユーモアたっぷりの司会に皆さ
 

ん数字を合わせるのに懸命、当ったと言う誰かの声に他の人はがっくり残念そう、次回に期待を寄せながら賞品が無くなるまで大奮闘。中には三度も当てた家族が出現、最後の会長特別賞では接戦の末に森下氏が大当たりで当日の最高の賞品を獲得。次いて力ラオケでは各人得意の曲が次から次と美声て歌われました。拍手の割合からすれば、 女性に少々軍配があったのではないてか

 

ょうか。特にお子さんめ歌は可愛いかったですね。私達仲間の記念日はこの様に会員皆様方による絶大なる協力を戴き、大変楽しく且つ有意義な一日として過す事が出来ました。移住十五周年の記念として、会より美しいシャベーロを会員全員に贈呈され、当日の締めくくりとしてリオより来られた高木氏の音頭により星座の会をより発展さす意味て万歳三唱。参加者全員て横断幕を

 

バックに記念写真を撮り次回の再会を誓い合いつつ名残り惜しく散会しました。皆様当日は本当に御苦労様てした。いつまでもお元気で再会を楽しみにしております。

星座の会々長挨拶
      石田 勉
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謹んで新年のお慶びを申し上げます。一九八五年一月

 昨年の十一月には、十五周年記念大会が、日本カントリークラブて催され、沢山の会員の皆様の参加で有意義な一日が過ごされました。それと同時に大会を記念する、会報特別号の発 行が企画され、会長として何か記せとのことで、昨年中に書くべきところが、年が明けてしまい、冒頭の新年の挨拶となった様な次第です。

 

 移り来て十五年、良い意味でも、悪い意昧ても、確実にブラジルの風習が身につき、何事につけても、のんびりムードで過ごす事が多くなりました。星座の会が発足してから三年を経過しましたがその間役員の方々には、忙しい仕事の中で、自分の時間をさいて、会のために種々の活動をされ、会の発展に寄与されて来られた事に、 この特集号で厚く御礼申し上げたいと思います。

 

 さて、私達がリオに着きましてから今日までの十五年間には、当時思ってもみなかった事が私達自身の上にも起ってきました。今迄に約二五名が日本に帰国され、二名がブラジルの土となられました。現在サンパウロに約二十名が居住しその他の人達は、リオ、クリチバ、ブラジリア、ポルトアレグレ等ブラジル各地で活躍されています。ブラジルの状勢も十五年の間に悪くなるー方で、特

 

に我々に一番関係の深い通信建設工事も縮小され、一九七四・五年当時の面影も有りません。新聞、テレビ等では明かるい方面に向かいつゝある様に言っていますが、今年は新大統領が 一応民主的に選出される事になっているので、新しいブラジルの出発に期待をかけながら、今後とも我々会員の一層の発展を祈る次第です。

移住十五周年に想う

  山崎 正美

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新年おめでとうございます。会員の皆様並びにその家族の皆様には益々御健勝の由、謹んでおよろこび申し上げます。

 さて、私達同志はブラジル国に於ける、通信拡張計画の実施に関連し、各諸氏並びにその御家族が共に新しい人生の遠路を将来の美糧と展望し、勇断を持って当地に移住された事と存じます。外国に移住する事は母国と違って、言葉では表現出来ない多様な苦労が生じるものでありますが、これ等を克服する努力が必要でありそれには周囲の環境を理解し定着心と強い忍耐力がまっちしない

 

と、自己の基盤を構築する事は困難ではないかと思います。私達はこのような心境を自覚し常に心得、今日に至ったものと考えます。しかし仲間の中には家庭の事情や諸般の都合で既に帰国された方々も生じました。そして運命と申しましょうか、若年ながら不幸にして当地で生涯に終生された方もごさいました。又単身で移住され現在では幸せな御家庭を築いておられる方々も沢山おられま

 

す。どちらかと云えば、この十五年間にお目出度い方が遥かに多かった事は何より喜ばしい事と申さざるをえません。当会による同志のまとめによりますと、家族数は別に致しまして、会員七十三名、帰国者十九名死亡者二名、そして現在五十二名との数字でありますが、その諸氏達が国内で分散され夫々の分野で活躍されておられるのでありますが、時代の流れと共に変って行くものだと痛
感致しました。こうした情況の中で昨年十一月十七日、日本カントリークラブに於いて移住十五周

 

年記念行事は好天に恵まれ、サンパウロ在住家族は勿論のこと、遠距離にもかかわらずリオ方面からも家族を含め多数参加の上かくも盛大、且つ喩快に催しを実行出来ました事は、とりもなおさず先代役員諸氏の蓄積並びに会員皆様による親睦心の賜ものだと認識致す次第でございます。会員の中には六ヵ月毎に催して欲しい、或は年にー回行ったらどうかとの良案も耳にしました。そうした

 

声は日常近隣や特定の方以外に逢う機会が無く実際に対面してお互いに懐かしさを味合う楽しさや色々な意味での相互的な親しみの画れる有意義な場所を短期間に実施願いたい意向だと思います。ところで残念ながら石田会長が急病の為参加出来なかった事や、諸般の事情で不参加になった会員もございましたが、これ己むの無い理由があり、会報及び特報の送付により仲間の近況をお知らせ

 

致す事で了承願う次第であります。又当会による同志数ではまだまだ多数の仲間が未会入になっております。皆様方は会と云う名実の意義を充分認識し理解されておられる事と存じますので、本年は是非とも新たな呼びかけを画り、一人でも多く入会される様、事情御賢察の上宣敷く配慮願いたく思います。そして次回の開催時には益々盛大な構想を企画され星座の会をより進展される事を期

 

待するものであります。最後に、私達移住十五周年行事に際して絶大なご協力を下さった諸氏並びにそのご家族の皆様の御厚情には心から敬意と御礼を申し上げる所存でごさいます。

ブラジル流れ旅
田中 公

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 伯国スタンダード社へ技術移住した日本人仲間て私ほど目的もなく、夢もなく来た人間はいないだろう。何しろ独身の身軽るさ故、ブラジルがどんな国なのか? スタンダード社は?何も知らずに、只、何となく、ブラジルヘ移住してしまった感じ、そして、そのまま居付いて十五年の歳月が流れた。もし、あの時、十五年前、日本移住事業団が、スタンダード社人事担当重役が、慎重に、

 

且つきびしく、移住者としての適応、心構まえ等、移住希望技術者の人選を行なつていたならば、私如きは、当の昔、シッポを巻いて逃げ出していた事、疑う余地もない。正直な所、私は、人事担当重役との面接テストも受けず、無責任?とも思われる移住事業団の勧めるまま、自分のもらう給料の正確な額さえ知らず、勿論、重役とかいう顔も拝まず、ブラジルに来てしまったのてある。そ

 

んな男が□幅ったい事を言う訳ではないが、スタンダード日本人技術者の、私達仲間の定着率が非常に低いように思う。正確な数字ではないが七五人中、三十人余りが十五年を待たずして、日本へ引揚げてしまったのである。この数字は、戦前、戦後のいずれもきびしい農業移住者に比べて、比較にならない程だ、又一方同じ技術移住者の例にしても、私達仲間の独立者自営者も少ない。この

 

方は、ある程度、仕方ない事である、何故ならもともと電話技術者としての、同業仲間ばかりだから、しかも、公企業のプロジェクトに携わるもので、独立はむずかしいのだろう。いずれにしろ、戦前の崇高な農業移住者、一発一旗組、又戦後の外地引揚者、炭坑離職者、ブラジルしかないという人達とは移住に対する気構えが違っていたのだろう。同時に私達仲間のブラジルに於いて、他の

 

日本人移住者にくらべ比較的に恵まれていたのではないだろうか。それが逆にしぶとさを育まなかった理由であろう。こんな事を言う自分はドップリつかったサラリーマン生活も、インフレと新給料調整法で、湯如減がぬるくなってしまったが・・。 それでも、それでは何かー旗挙げようと思ってみても、そう簡単に脱サラと言う勇気が湧かない今日今頃です。元来なまけものの私にはブラ

 

ジルは適しているのだろう。人は「プラジルボケしたのだよ」と云うかも知れないが、案外、移住事業団は私がブラジルに適している事を見抜いていたのかも知れない。

住めば都
皆川 匡

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 ガレオン空港到着と同時にムットした熱気に包まれた。六月は当国の冬であると聞いて来たが、夏は恐らく焼け死ぬ程暑いのではないかと心配したものだった。又何となく異臭が鼻に付きまとい、街行くオンボロ車からクラクションで驚かされ、話す言葉はチンプンカンプン、日ならずして望郷の念にかられる。半年後に家族が来たが、その頃には私自身或る程度リオの街の面白味(?)

 

を先輩諸氏から指導していただいたお蔭て、ヒョツトすると私にとってリオは都になり得るのではないかと思う迄になって居た。家族と居を構えた当初妻は西も東も判らず、勝手が違った食品にとまどい、肉屋にブラ下がって居る豚に恐れをなし、その上に育児となると、出て来るものはグチのみで夫婦ケンカの余地も無い。半年も過ぎるとそろそろ日本を出るときに切り落した筈の角が再生

 

し始める。「もう我慢も限界よ、今すぐ日本に帰らしていただきます」と来る。こちらにして見ればはるばる太平洋を越えて輸入した逸品(?)ろくに活用もしない内に返品では「OK・チヤオ」とも言いかねる。そこは輸入主の頭のヒラメキ、返品して貰うにも敵は替為輸出の手続を採れる筈もない。「うんそうか、反対はしないよ、ただし自分から帰ると云いだした以上お前自身て手続き

 

をして帰れるなら帰ったら良い」とすまし込む。こんな事が数回続くうち自分から帰るとは云い出さなくなつた。その内俺の方から「日本に帰れ」と怒鳴っても「何よフフン」と答がはね返ってくる。そろそろ都の生活に染色され出したなと思う。そして近頃は貴方丈け帰ったらよいでしょうとソッポを向く。いやはや「住めば都」、人間よく出来てるもんだ。お陰様で今では我家にとつてブ

 

ラジルルは完前な都と化した様だ。ここ二年の内に四、五回アフリカにやられたが住めば第二の都になりかねないとひそかに恐れている今日この頃である。

 大瀑布への招待 
川崎 武彦

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 来伯十五年、仕事の性質上皆様到る所へ出張されて様々な経験をされたと思います。この機会を利用して私の経験の一つを紹介しましょう。一九七九年五月にロンドニア州の州都であるポルトベーリョヘ出張しました。アマゾン河のー支流てあるマデイラ川に面した州都て小さな街だが此の地方の人類未踏地開拓の中心地として若者が多い活気に満ちた街てす。焼畑農業や開墾のため連日到

 

る所てジャングルが焼かれて、真黒な煙が龍巻の様に天空に昇って空を黒く染めており、その良否は言えませんが将来が心配されます。街の近くには日本人入植地が在り主に野菜を作っています。当地に来て最初に見物に行ったのがマデイラ川の大瀑布チオトーニオで、五月の増水期でしたので干米近くの川幅一杯に大水量の激流が到る所に白波や飛沫を上げながらゴオーと大音響を轟かせつ

 

つ流れ落ちており、 その勢いが下流の水を長く切り裂く迫力は鳴戸の渦潮の比ではありません。海より二千キロ以上も離れた陸の奥地で、こんなスケールの大瀑布を観れるとは考えてもおらず、只見とれているのみでした。此処の住民は急流上に延ばしたヤグラの先端に座り、釣針付きの竿を持って根気よく水面を見詰て居り、激流を避け岸寄りの水面上を遡るビンタードを一瞬の間に捕

 

てしまいます。その名人芸を見逃すまいと水面を見詰る私は、ヤグラを両手て持っても流れにヤグラごとに吸い込まれそうで恐ろしくなり断念。話しでは乾期のため川の水位は七月頃より下り始め、九月の最盛期には二十米下がるとの事、目前の大水量を見る私にはとても想像出来ません。九月に入るとチオトニオでの釣話が良く聞かれ我々局で働く連中も早速飲食物を揃えて車で早朝に出

 

発します。小一時間デコボコの悪路を腹が捻れる程揺られ又埃を頭から被り体中黄色くなるが期待感と友人達のサンバのリズムに気分が高揚させられいざ突撃と言った心境で苦にもなりません。遂に到着、川を一望して余りの変貌に只唖然、あの轟音も無くなり川は岩山のみ。到る所に大小の滝が出現しており、その水がーケ所に集まって川幅百米の激流に変っているのみです。釣り場迄行く

 

には陽に焼けて火傷しそうなつるつるの岩山を、右へ左へ或いは登り降りしながら二十分以上歩行しなければなりません。釣場での要注意は足元の水流です。激しく渦巻く川の中央へ吸い込まれており、その為に此の時期には二、三人の水死事故が毎年起っているとの事。そこで釣り始めの注意は、手袋使用(出来れば皮)、釣糸を掌巻きにしない、残り糸は足元より離し、魚に引き込まれそ

 

うなら手を離し、足場は十分安全な場所を選ふ事です。これは私が選んだ釣る方法つまり三叉の釣で餌を付けず魚を引っ掛けるためです。足場を再確認して激流の落ち込み渦巻く川の中央へ釣糸を投込みます。底に沈んだ頃にグイと手元へ引くと遅くとも四、五回で何かに当った手応えと同時にククーと強烈な引きが来て今にも引き込まれそうになります。手袋を使用しても指は痛み糸先はピ

 

リビリ震えながら右に左にと動き廻り、前に強く引かれてヒヤリとする時も度々有るが出来るだけ後に全体重を掛けて、耐えて待っていると抵抗が弱まり魚が水面にに現れます。約一米のピンタードが私の格闘相手でした。時々針が折れる時も有るが、針の大きさを考えると魚の大きさは想像つきません。水面より岩場迄この獲物を引き上げる時、腕には今迄の戦いの名残りと掌には糸を通し

 

た敗者の重量がズシリと掛ります。魚には悪いが巨大で苦労する程に釣りの醍醐味は増し、それに獲物を前にして針を外す時の満足感...最後に行った日の戦果は二十匹のピンタードと不味そうで水に戻した種々な小魚(三十センチ以上)合計すれば四、五時間で約三百キロは有りました。 友人と二人で流木にピンータードを下げ、重過ぎるので肩を左右に替えつつ岩場をふらふらして戻

 

ったのを稿を書きながら思い出しております。しかしこの釣り方では釣れ過ぎてすぐに倦んで来る。そこで瀑布見物をしましょう。釣っている人は多いのですが場所が広いので何んとなく閉散として、激流の音のみが川に響き渡り、時々大物を釣った人の歓声がこの音に混じっております。川も三十秒間隔で水が増減します。魚はこの増水時を利用して急流を遡り、減水時は小さな岩陰でじ

 

っと次の増水を待って又次の岩陰へと順次進みつ瀑布を遡るので、激流の岸辺では大量な小魚が列なっており、いとも簡単にこれを手掴み出来ますが誰も見向きもせん、皆ピンタードを狙っているのです。私がこの流れに足を入れるとその足陰にも小魚の列が出来足を外すとこの列の魚は折角此処迄登って来たのに全て元へ戻される様は何となくユーモラスを感じさせられて一人ニヤニヤした

 

のを思い出します。急流の中央では短気な魚なのでしょうか一気に遡りかかるが、長い激流の為に大部分の魚が元に戻されておりその落ち□には大量の魚が群がってしまい、渦に揉まれて時々雲の様に水面上に姿を現わして水の色を変えます。小さな滝では、同時に何匹もの小魚がピョーンピョーンと飛び上がって滝を登るのが見られ、滝に面す岩場にて袋広げて居れば、いくらでも魚の方か

 

ら飛び込んで来るので一時間も居れば百キロは獲れるでしょう。 小魚の跳躍を見ていると色々と方角が違っており、待てよ、野球の打撃練習にもつて来いだ。真中の球、左右高低の球、外に逃げ内懐に入る球、浮き沈みする変化球、おっと死球ウーンこれは痛い。瀑布の下流では、イルカの様な魚が呼吸する為に時々姿を水面に現わしブシューと音を立てつつ水を吹き上げるのが見れます。

 

釣られたその魚が水中にて、洗濯物干しのナイロン紐でえらを通されているのを見たが、大きい大きい、約百キロはある。どうして釣り上げたのか、御苦労さん。約二ケ月間、連日連夜遡る魚の量、想像出来ますか...?アマゾン河の一支流、その又一つの瀑布にてこの状態、アマゾン河の巨大さの表現など何をか言わんやと云った所でしょう。大自然の奥深く入り、その片鱗を覗いた事

 

を書きました。最近、乾期には此処で砂金が採れると聞いております。残念....

 写真をニ葉併せ載せます。一つは激流の落ち口で増水時には見えている岩山全てが遥か水の下となります。他のは初日の釣り戦果。私に暇と金が有る時なら、希望者を招待します。

観光旅行のつもりが

  清水 晴司

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 今から十五年程昔のこと、総勢七五名にものぼる日本人技術者がブラジルに移住してきた、そして彼等全員がアメリカ系の会社、スタンダード・エレートリカ社で勤務し、ましてや日本での収入の約三倍もの給料が支払われるという日本人海外移住史上に大きく書き残される出来事が起きたのである。ところが幸か不幸か、実はいつのまにか私もその一員に加わってプラジルに来てしまって

 

いたのである。気が付けばそこは、フロリダ・ホテルの一室であった、窓の外から聞こえてくる強烈なサンバのリズムに目を覚したのである、それは私が想像していた以上に楽しいブラジルを印象付けるものであった。なんだかおかしな書き出しになってしまいましたが、私がブラジルに来たの

は決して移住を覚悟して渡伯したのではありません、若さにまかせての一種の冒険旅行と出稼ぎと

 

を兼ねたー石二鳥の考えで乗り込んで来たのです、もちろん、このような考えでいたのは私だけではなく大半の者がそうであったのではないかと想像します、特にいつでも自由のきく身の独身者には仮に何が起っても、『まあ何んとかなるだろう』という気があったと思います、そして明けても暮れても、『なんとかなる』の考えでいたら、いつの間にか十五年の歳月が立っており、今では二

 

人の子供のおやじになってしまっていた。自分が子供であったころ寒空に鼻水をたらして、近所の子供達とビー玉遊びに明け暮れていたのが、ほんのこの前のように思い出される、いつまでも若いつもりでいたのにいつのまにか三十七才、この分だと四十、五十、六十とすぐ目の前に近づいてきそうな気が致します。一般的な日本の企業では毎年新入社員が入社してくるのが普通であるが、こ

 

ちらに来てしまった私達には先輩の立場として新入社員を迎えるというような事はなかった、ブラジル人の新入社員はあっても私達とは立場が違う、新入社員が入社してこないが故に自分達がいつまでも歳を取らないという錯覚におちいるのではないだろうか。この前の十五周年記念集会でもそうであったが、数年ぶりに顔を合わせた仲間の間で十五年間の肉体的な衰えは当然少しは誰にも感

 

じられたが、精神的には誰一人渡伯当時と変っているようには思えなかった、全く昔そのままである、そんな雰囲気の中で過ごした数時間、誠に愉快であった。もし誰かがこの十五年間で何が一番印象に残っているかと尋ねるなら、大半は渡伯当時の出来事を思い出すのではないでしょうか、電話局で無我夢中で仕事をした事、現場での訓練、ポルトガル語の学習、早朝出勤が大変だった事、

 

ペンソンでの食事、飲み屋のはしご、プライヤでの目の保養、残業手当が基本給を上回った事等、その当時の出来事一つーつがはっきり頭の中に焼き付いています。十五周年記念に際し、何か一筆書いて下さい、と頼まれ筆無精の私が今だに考えのまとまらないまま、だらだら書いているのです

が。仕事の上でブラジル国内を旅行する事は、ほとんど皆経験していますが、ここ数年来国外出張

 

もだいぶ盛んになってまいりました、私の場合、パラグァイ、ナイジェリア、そしてグァテマラの三ケ国を訪れる機会がありました、その内グァテマラについて少々御絡介させていただきます。メ

 

キシコと共にマヤ文明の発祥の地とされているこのグァテマラ、東は大西洋、西は太平洋と隣接しており、国土は日本の三分の一程だと思います、コーヒー、綿花、トウモロコシ、バナナ等、農産物の輸出で中米第一の国民総生産を誇る国でもあります。そこでいったい何がこの国に高い収益をもたらしているのであろうかと考えると、実はそれはインディオ達なのであります、少なくとも私

 

はそう思います、世界中に今でもインディオいわゆる土人に値いする先住民族の住んでいる国がいくらかあります、大きく分ければ、ブラジル、アフリカ、二ューギニヤ及ひミクロネシア地方、そして中南米の高地に住むインディオの四種類ぐらいに分けられると思います、そのそれぞれのインディオ等が気候、風土、自然環境等その土地に全くマッチした生活を営んでいるわけです、言い変

 

えれば、彼等には彼等の土地以外では生きてゆけない人種と言えるでしょう。その中でこの中南米の高地に住むインディオは不思議と何か他のインディオと違った異様な雰囲気を感じさせられます。別にインディオに関して詳しく調べた沢ではないのですが、なんとなくそう思えるのです、具体的に言えば彼等は勤勉でよく働き、内気ではあるが自尊心が強く、また信仰心も深いが物事に執

 

念深いところがある人種と私は感じました、要するにあのマヤ文明を築き上げた人達の子孫が今もなお、こつこつ汗水をたらして農作業に専念しているのである、山間部では段々畑も多く見られ、大人も子供も一家総出で一生懸命働いています、農作業だけをしている彼等を見れば決してインディオとは思えませんが、生活上の風俗、習慣、言語いわゆる土人語、それに今もふだん着として着

 

継がれている各地方の民族衣装等を目の前で見るとやはりインディオである、もちろんグァテマラ社会でも彼等は土人(インディヘナ)と呼ばれています。そんな訳で私はグァテマラのインディオに全く魅了されてしまいました、また一年半のグァテマラ生活でインディオだけではなくほかにも多くのことを学ぶことが出来ほんとうにいい体験だったと思います。この十五年の間、決して楽し

 

いことばかりではない、辛い事や悲しい出来事も皆それぞれが体験してまいりました、だけど今一人一人が、この機会に各々の思い出を書きつづる時が与えられ新ためて現実の自分を再認識出来るのではないでしょうか、私の場合ブラジルに来てほんとうに良かったと思います、またそう思える私に、私は心より神様に感謝する次第であります。

スタンダード社での思い出
桑原 哲夫

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 見慣れた魚沼三山や、魚野川を後にして、日本を立って早くも十五年の歳月が、過ぎてしまいました。電話局で泊り明けの仕事でしたので休みだけは多く、その休みには山登りやスキーばかりやっていたのでずが、ブラジルに来てからは、これらの楽しみもほとんど縁が遠くなってしまいました。しかしベルーのリマからリオに向う途中のバリギの機内より見たアンデス山脈の雄大さには目

 

を見張ったものでしたし、七十年九月に一人でアルゼンチンのメンドサからチリのサンチャゴにぬける途中の真近に見るアンデスの山々のスケールの大きいのには日本の山なんかほんとうに小さく感じられました。又サンチャゴに着いてから、五十キロ位離れたファリジョネヌ、スキー場まで行き貸しスキーがないので、その辺に滑っている人に、頼んだら気軽に貸してくれたので、二、三回

 

ゲレンデを滑った事なども、ほんのちょっと前の出来事の様に思われます。リオに着きフラメンゴのフロリダホテルでの最初の夜何を感じたかと云うと、車の排気ガスの匂いの強さと、軍事政権と聞いていたのにアメリカの音楽ぱかりかけている放送局が多かった事です。ホテルでー週間なんとなくゆっくりできましたが次の週からグラジャウーの局で朝七時にカードを押さなければならず、

 

フラメンゴの宿を五時半起きで外も暗く日本では想像もしていなかった事でした。日本では週五日制という事だけが良く思われ、日に何時間働くかなんてあまり深く考えもしなかったからでしょう。あの頃はカフェーが十センターボ、・オニブスが三十五センターボ、ガソリンが六十五センターボ、ドルが三コント八十センターボ、時の大統領はコスタシルバからメジシに変ったばかりの頃

 

でインフレも年に二十何パーセントといった時でした。 日本では二年近く、C400とC22をさわってきてペンタコンタの交換機を目の前にしましたがえらい安っぼい、動作の遅い交換機だと云う印像でした。こんな方式では保守の人も大変だろうけど、我々テスタドールも集中試験架がない交換式のテストは仲々大変なものでした。只この方式でイデンチフィカソン・デ・アッシナンテ

 

とフェシェ・コネクトール。の動作は仲々便利なものだという感じがしました。この頃、日本では読んだ事もなかった文芸春秋を月々買って読む様になりました。と云うのも日本では家でも職場でも日本語の本、雑誌、新聞等ゴロゴロしていましたが、リオではそれが一転してものすごく珍しく感じられた訳です。リオでも出張先でもこの本を買って読むのは楽しくもありましたし、特に去年

 

アラスカのマツキンレーを目さして亡くなられた植村直己氏の書いた冒険物など二回も三回も読んだものでした。それなりにいろいろな知識や教養も得られたと、自分なりに思われます。でも八十年にサンパウロに越して来てからは、日本語の書物が身近になった事やビデオを見る時間が多くなり文芸春秋を読むのもほんとうに時々といった様になってしまいました。

「ナイジェリア見聞記」

          宮本 隆

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 毎週、月曜日の夜9時、サンパウロのコンゴニァス空港から出発するパリーグ機に乗り、翌朝11時現地時間では4時間の時差でナイジェリアのラゴス空港に到着。64年7月末、サンパウロではオーバーが必要な程の寒さが、ラゴスでは蒸し暑く、69年にリオヘ着いた当時の年を思い出しました。ラゴスの空港には、79年に象牙海岸の首部、アビシャンから、日本へ行った時に給油に

 

立寄った事があるのですが、今回は6ヵ月の出張旅行でしたから、色々と新しいものが見られるか

なと期待していました。しかし象牙海岸から比べると、都市は未だ整備されておらず、電気、水は度々不足し、下水道は無くゴミと汚水が流れている状態でした。アフリカはどこでも貧富の差が激

しいのですが、ナイジェリアも他聞にもれず、一流ホテルには、一泊百ドルの部屋があるかと思え

 

ば、すぐ傍の堀立小屋で、現地人が食事をしているという状態です。未だ文盲の人も多くナイジエ

リアの最多部族であるハウサ族の中年以上の人には、公用語である英語が話せず、買物の時には手真似で金のやりとりをする始末です。昔は一万以上の数の言葉も有ったそうですが、現在は、老人

だけが知っていて、大多数の人達は部族語の中に英語を混用して用を足しています。一度、ラゴス

 

から地方へ出張に出ると、約3週間の内に四千五百キロメートル程車で走ります。ナイジェリア人の運転手が運転するのですが、運転が荒くリオのタクシーの運転手顔負けという感じです。頭にはトルコ帽のような帽子をかぶり、アラビア風の長衣を着た回教徒がそのまゝ運転するのですから、さぞ運転しにくいと思うのですが、そういう服のまゝ140~150kmの速度で、道路を飛ばし

 

ています。約9千万と言われている人口のせいか、又は気候のせいか、野生の動物は余り見受けられず肉も高いので、野犬や飼犬さえも、シュハスコにして道路傍で売っている始末です。83年12月末の軍事クーデターの結果発足した軍部政権の取締りが厳しく、主な密輸製品は品薄及び、値が上昇しており、日本人の主食である米も不足していました。ナイジェリア産の米は、石油臭くて

 

食ぺられず、スパゲッチや、パンで代用食とし次に手に入る迄のガマンというところでした。ラゴス及び、地方都市では普段、白人の姿を見る事は滅多にないのですが土曜、日曜日にはどこからともなく海岸や、クラブに集って来て、こゝがアフリカなのかと思う位のにぎやかさに成ります。一流ホテルではカシノがあり、プラックジヤック、ルーレット、スロットマシーン等が備えつけてあ

 

り金曜、土曜の夜は、足の踏場もないというょうににぎわいを見せます。アフリカ人も結構バクチが好なのですね。中国人や日本人も多く、様々な言葉が飛びかわっています。リオやサンパウロで多々見かけるボアッチは無く、又夜間の外国人のー人歩きは危険で泥棒よりも警官の方が悪い人間が多いみたいです。余りよくなかった見聞記になりましたが、魚釣りの好きな人には楽しめる所で

 

す。ラゴスの近くでは、海釣りをする人もいなく、魚はえさを変るのに忙しい程の思いをしました。

渡伯十五年を振りかえつて

    中村 昭男

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 私が伯国移住の動機と成ったのは、友人の松本君が新聞を持って来て「海外で仕事をして見ないか」の一言からである。条件を見ると、これは何んと当時の給料の三・四倍強、早速親には内証で応募した所OKとなった。一方会社では社員教育、その他諸々に大金を掛けているとかで私の余りにも身勝手さにクビにすると云い出し暫くゴタゴタしたが何んとか円満退社出来一九六九年十月九

 

日伯国に第一歩を踏み入れる事が出来た。ガレオン空港からスタンダード差し廻しの車で初めて見る異国の景色に何んとなく心細さを感じたが、ホテルフロリダには先輩諸氏が待っててくれ良きに付け悪きにつけ色々と面倒を見てくれたので心強い限りだった。同ホテルの滞在は二週間その間街の見物やら海水浴等呑気な毎日を過した

が、何しろ日本で二週間かかって覚えたポルトガル語は「ハイ」「イイエ」「欲しい」「寝る」位のものでとても物の役にはたたない。同僚四人でポンデアスーカルに行った時などは行く時はホテルの前からどうにかタクシーをつかまえたが帰りは私達のポ語では何処に連れて行かれるか恐ろしくなり約六粁の道のりをテクテク歩くハメに成った。
二週間もまたたく間に過ぎ去り会社の通訳を

 

通しホテル生活に別れを告げ下宿に入った。さて無事下宿に落着いたのは良かったが夜な夜な虱に攻められ寝る事も出来ない、やっと辞書で虱は「プーガ」である事を発見し下宿の小母さんに「プーガ、プーガ」と連呼してもその後が続かない、殺虫剤を手に入れるまで二十三才の大人がベソをかいて過さなければならなかった。 あの頃は伯国は貧しかったか接する人々は非常に親切だった

 

し近頃のような強盗の心配もなかったように思う。愈々仕事に取りかゝる事に成ったが、日本のXB交換機とえらい違いその上すぺての図面やら説明書はボ語である。簡単にのみ込める訳はない。せめてこれ等のドキュメントだけでも日本語であつたらと思っている中に二ヵ月間のペンタコンタ交換機の講習が始まった。勿論通訳付である。これで何とか仕事も出来る様に成る。 リオー年、

 

ブラジリアー年半、バウルー二週間、そしてロンドリーナー年が私のスタンダード社における勤務地でした。その間ブラジル人の気質やら考え方が少しづゝ判るようになり私共島国とは相容れない大陸的とでも云うのだろうか大平楽の生活を楽しんで居るように思えて仕方がなかった。日本人は夜勤と成ると一睡もせずコツコツと仕事をするがブラジル人は勤務であろうと夜は寝るために存在

 

すると思ってか申訳程度の仕事をしているなと思ったら機械室に響けとばかり大イビキ全く気楽なものだ。こんな事では何時の日か全国ダイヤル即時が可能になるのかと心配したものだつた。然しながら十五年を経た現在、国内ダイヤル即時はおろか国際ダイヤル即時にまで進歩していることに一驚したが、我々の技術も一役かっていると、ひそかに自慢しているのは私一人ではなかろう。又

 

こんな事をロンドリーナで経験した。と言うのは同局の加入者回線切替のため七十パーセントの加入者を不通にして実施されたのである。到底私共には考えられない事で一加入者に聞いてみたら「サンパウロまで馬で用をたした事を思えば少しでも接続されるだけ有難いことだ」との答が返って来た。全く感心させられる。一九七三年想い出多いスタンダードからNECに移り現在に至って

 

いるが十五年を振り返ると自分の知らぬ間に人生と云うエスカレーターが気儘に進められている様な気がしてならない。

十五年を顧て

  高木 啓次

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 昭和四十三年の夏の終りだったと思います。昼の食事の後、新聞に眼を通していて、スタンダード社の電話技術者募集の広告に、出合わしたのがブラジルに来て、今日迄腰を落ちつける発端でした。気がついた歳頃から、これといった理由もないのに外国に憧れていて、それを満足させる為、文通と映画館通いに、今思えば本当に貴重な人生の一時期を費じたものです。其の後外国へ行く手

 

段を色々と考えたものの、いずれも問題が有り実現不可能と成り、もう諦めていた矢先の事でした。 三十一歳という齢を忘れて、直に京都府庁内に有った移住事業団京都支部へ連絡sし、当時の支部長であった川崎氏に手続き等の説明を受け、書類等を提出し、大阪で有った面接に行ったのが十月始めでした。其の結果として採用通知を受け、ブラジル大使館で入国審査を受ける為東京へ

 

行ったのが十月の終りで、十一月始めにはSESAの意向として月末には日本を発ってほしい旨連絡を受けました。夢を見ているような短期日に決まってしまったのでこれに前後して持上った結婚の話迄が、そのリズムに巻き込まれた様に婚約の形できまり、吾が事乍ら少し慌てたものです。ところが、当時勤めていました会社の方の仕事を他の人に申し送りする為の時間がなく、十一月末出発は難しくなり一度は採用辞退を申し出る事も有りました。但しSESAより遅れても良いらかと

 

のTELEXを受け、結局昭和四十四年一月の二十三日に両親、家族そして婚約者と成った女性の見送りを受けて、晴天なのに肌寒い羽田を発ち、一人でリオのガレオン空港に着いたのが同じ日付の二十三日午後でした。出迎に来て呉れたシャーペンティーエル氏とコパカバーナのホテルヘの自動車の中で下手な英語で話しをしたのがつい昨日の様に思われます。又その道で見た深い紺青の空

 

を背景に浮き出たコルコバードのキリスト像が今でも忘れられず時折同じ様な状況で見るキリスト像に、あの日もこんな具合だったと思い起す事が度々有ります。人間の一生を大宇宙に較べて見る時、それは極小のAにしかすぎない・・とよく言われますが、我が身に起る様々な事を思う時自分の一生は紙の上に引かれた一筋の線の様に、多少の揺れ動きは有っても始めと終りが生れだ時と死

 

を迎える時と言う形で決っている様に思えて成りません。 外国へ行きたいと思って居乍ら行く事が出来ずあきらめた頃にその機会が来たり、考えもしなかった南米のブラジルに住みつき十五年も過す様に成った事等、「運命」の二字で呼ばれる眼に見えない約束事の様に思われます。私と同様に十五周年を迎えられたSESAの会、会員皆様との関係も又日本へ帰られた人連とも「何かの

 

縁」という言葉でつながっでいるのではないのでしょうか?。各自の持つ運命として定められた縁が日本を遠く離れたブラジルという点で結ばれた、としか思えないのです。この縁は大事にして行きたいものです。嬉しい事悲しい事、いずれも済んでしまえば只、思い出と成るだけですが、皆で分ち合ってこの先、二十年三十年と生きて行きたいものです。そして何時に成るか判りませんが、

 

歳老いた皆が顔を合せて昔話に笑い合える日を迎えたえと思います。今だに青空に湧き昇る入道雲を見ると私の心は「見知らぬ遠い何処かに旅立ちたい……」と騒ぎ出します。しかし、それは何処か・・と問われても返事の仕様もない程、形も何もない目的地なのです。若さにまかせて飛び出して来た日本が思いも掛けず懐しい今日此頃です。

ブラジル十五年

 富永 誠一

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 「俺は首に鎖を付けられた覚悟でやる」と皆川さんは断言された。それは十五年前であった。渡伯後僅か,五ヵ月で、当時のブラガ人事重役に私は解雇を申し渡された』のであった。新妻は身重であったので、胎児の影響を考慮して私が解雇されたことは妻には打ち明けなかった。私は自分の事は自分自身で解決出来る自信と若さに溢れていた。それで領事館や事業団を走り回った。ブラガ

 

重役の部屋にも行き、ブ口ークン・イングリッシュでどなり立てた。しかしこの秘密も三日目にして不本意ながらばれてしまった。私は何時もの帰宅時間の六時半に合わせてなにげない顔で帰宅した所が妻はビックリした顛をして「あら、今日はどうして早いの?」と問うている。早い事ないよ、何時もの時間だよと応えて、時計に目をやればまだ五時半だった。私は一時間の感違いをして

 

いたのだった。私は観念しで総てを妻に語った。そして私は強い圧迫感から開放され、まだ問題は解決されてもいないのに安堵の念を抱いた。そして最も親しかった緒方氏へ電話を入れて事の成り行さを説明した。それから近くに住む、当時の私達の通訳エリーザ嬢を訪ね、今後の対策を相談した。三十分後帰宅して私は驚いた。私のアパートの前には、皆川さんを始め緒方さん、田中さん、

 

和田さん達が仕事を放棄して駆けつけてくれているではないか……。嬉しかった、私は本当に嬉しかった。友人の有難さをこれ程感じた事はなかった。私はそれ迄はブラジルに渡って来る者の大多数がそうであるごとく、「一匹狼」を信条とし、他人の援助等くそくらえと思って生きて来た。この事件以来私は考え方を一変した。渡伯して半年足らずのポルトガル語もろくに話せない、自分の

 

身分保証も何んら無い友人が集って、危険を犯かして私を助けようと衆議一決した時、冒頭の言葉が皆川さんより発せられた。私は心の中で感涙した。これは一生忘れる事の出来ない事だ。決して忘れてはいけない、そして何時の日か皆川さんを始め皆様にその恩返しをしなければと思っている。早いもので当時から既に十五年経ってしまった。あの当時は一緒に来伯した仲間の結婚式に参

 

列したものであった。それが最近では子息達の結婚式に招待され、時の流れを思い知る此の頃である。この十五年で七十五名の仲間は、帰国した者、独立した者、社長へ昇進した者と種々の分野で活躍しており、久し振りに会えば話は尽きなく実に楽しい。最後に私と私の家族を紹介したい。つい最近、社長のピストル自殺で有名に成ったマウア造船所に勤務し、副社長補佐として社の知恵袋

 

となり、造船王国日本の技術と経営管理法を提唱し導入している。七十四年に英国フランス等のヨーロッパ六ヵ国へ造船技術の研修に派遣された。七十六年に日本の日立造船所へ四ヵ月間、八十一年に北米へVE/VAの勉強しに行き、その発起者であるマイルズ氏に会いGE社で研修した。八十三年にQCサークルとIEの学習へ二ヵ月間、そして来月は三度目の日本研修の予定です。これ

 

で生産管理技術としては一人前だと自負しておりますので、御用の節は「日本技術コンサルタント」へ連絡して下さい。妻の由美子は七十六年より日本語を教えて、昨年は国際協力事業団の奨学金で玉川大学に留学して来た。渡伯後まもなく生れた長女洋子は十五才に成ろうとしている。同時通訳に成る様にと教育投資をして両親は張り切っているが、当の本人はブラジル式にのんびりムー

 

ドそのもの。長男の誠と次男の剛は野球に明け暮れている。私も四十度の灼熱にも負けず、子供達の野球の手伝いをして真黒け。二人共各々ミリンとインファンチルのキャプテン、ピッチャー、四番打者なので将来の原か江川に成るよう目論み、左扇も近いと確信している。末子の由起は友人の別荘に泊って三週間も家を空けている。星座の会は十五周年を迎えた。これを節目に心新たにし

 

て、もうー頑張りしなければならないと己れに鞭打つ次第です。皆様も健康に留意され御元気に御過し下さい。そして今後共どうぞ宜しく御指導下さい。予定されているリオでの二十周年行事には一働きして、皆様へ御恩返しをしたいと心に誓っております。

脱!すたんでいろ

 岸 真司郎

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 石田、高木両氏を始めNECで働いて居られる皆様方の暖かい御援助に心から感謝しながら……
長い間務めていたスタンダード社が左前になった。最も今度が始めてではない。六七年前からの慢性左前なので、なに又その内に……と思っていたら今度こそ本当に左前になった。
それは九月分の給料の遅配に始まって十月分からは無配になった。左前にはなりながらもそう云う事はかって一度

 

もなかったので有る。スタンダードは面白い会社で左前になる度に。“これからは良くなる”と云う噂さが立ってやっぱり悪くなるのである。 私は相変らずの出張でこの度はパラナ州のカスカベウで働いていた。出張中だと云うのに給料も出張手当も立て替えた旅費すらももらえなくなったので有る。それでも平気で良くなる事を信じながら一生懸命に働いた。“武士は食わねど高楊枝”であ

 

る。所が一緒に働いて居た連中からの毎日の様に有るヘクラマソンにとうとう音を揚げて会社に電話を入れた所。お前そこで何をしてる?速く全員引き揚げさせろ!もう一週間も前からストで誰れも働いていない、他の出張先の連中は皆んな帰って来て居る!!と全く無責任な返事。大変な事になったのはそれからで有る。借金だらけの連中を一文も払わせないでどうやって帰すか、びた一文

 

もらえないとなると欲のかたまりと化したペンソンの女主人をどうやって納得させるか、それからの一週間は毎日同じ弁解のくり返えしと頭の下げ通しでスペルビゾールがこんな損な役迄しなけれ

ばならないとはついぞ知らなかった。話は変るがそうこうしている内、高木さん、石田さんから。NESICで働きませんか’と云う朗報が入ったので有る。所がこんな有難い話しにもかゝわらず

 

ほんの少しだがとまどった。と云うのは以前私は人員整理が有る、度び、に、私も首にならないかとひそかに期待していた時期が有った。今から考えれば一時の気まぐれで有る。そしてその望みはついぞかなえられなかった。だから逆に開き直ってよしそれなら会社がつぶれるか、アポゼンタードになる迄かだと考えを変えたばかりだったのである。変えたばかりの考えを又変える必要にせま

 

られた。一週間余まり考えた末自分丈の事ならともかく、家族の事も考えなきゃ………と変なこじつけで再度考え変える事にした。そしてグレーベの最中にオスカーに辞表を出した。クリスマスまじかと云うのに十月からびた一文もらわないまゝにで有る。何かひにくを云われるかとかくごしていたがそれは思い過しにすぎなかった。彼はどうしても辞めるのか?と云いおもむろにサインしな

 

がら。何処で働くのか聞いても良いか?と・・・・・かくさずにNESICだと答えると、それではNECの仕事をするのか・・・と云いながらじっと私を見た。その目が。プルータスよ・・・と云っている様に思えたのはこれも私の思い過しだったたろうか・・・。 そして今、昨年の暮れからNESICでお世話になっている。同じ道の仕事とは云えシステムの違いから、又、苦労のやり

 

直しで有る。振ったサイコロの目は振り出しにもどった。が、又これから大変だ等とは思っていな

い。スタンダードに居た間かなり苦労した(つもり)お影で、はたから見てつらいだろうと思われる事も自分では気付かない程になっている。得難い経験をしたと思っている。結局私はスタンダード社と共に浮き沈みしながら十五年と四ケ月を過した。先程苦労したと書いたが、それは今全て

 

しかった想い出と化した。なぜかとはっきり云えないが辞めた今もこの会社が好きで有る。自分がどんなに愛社精心を持って働いて来たかを他人に胸をはって云える様な気がする。唯一つ残念たったのは最後の仕事が中途半ばに終わった事で有る。だから誰れが後を引き継いでもさしつかえない様にきちんと整理をして去った。“立つ鳥後をにごさず”のつもりではない。きっと心の奥の何処か

 

にこの会社を去り難い想いが有ってそれがそうさせたに違いない。最後に、今は商売敵きとなったとは云えスタンダード社の前途の発展を祈りながら筆を置く。

十五年過ぎて

高橋 ヒサ

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  日本での生活に終止符を打ち不安とそして、期待に心はずませ、ブラジルに来たのも、思い返せばもう、十五年前と云う長い月日が、たってしまいました。始めの一年間、言葉、風習、買物そして子供の教育の事など、何もかも夢中で過ぎて行きました。少し大胆に出来ぬポ語を平気でつかってみたり、買物をしてだまされ、いらいらしたのもその頃です。大らかで、あけっぴろげで、そ

 

して陽気な国民性に、何となくとけ込み、いやいやながらも妥協して行くうちに、いつしかブラジルが私には、あっているなあー、と思うようになり、そのうちブラキチ(プラジルキチガイ)とまでは行かずとも、好きになってしまいました。ブラジルに来てすぐ、友達がパスに乗り人の足をふみ、あわててあやまらねばならぬのに、言葉は習って知っているのに□には出ず、あっと、思い出

 

したのが「パラベンスJふまれた人の顔は何とも云えぬ顔だったようです。しかし御本人にはまちがっていても気がつかず、二コリと笑うと被害者も二ツコリ。無事下りて、あとでわかって、ヒヤ汗をかいたと云う話も、今もって笑い話の一つです。私だって同様、どんなに恥をかいたか、わかりません。又、主人側にも、数々の苦労話も人、それぞれにあったと思います。しかしその一つ一

 

つどれをとっても、よき十五年となるのでしようか。 リオの生活から始り、主人の出張について、あちこちと住居をかまえ、今サンパウロに落ちついてみると、日系人の多さで、外国ではあるがそうでもなし、と云ったような、奇妙な生活にとけ込んでいます。住みながらにして、日本の香を味わえる、幾種のものの中に、どつぶりとつかって毎日を過すように、なってしまいました。

 

先日の事です。突然の電話で、私の友人であるMおばあちゃんの声。誠に真面目に、「あんた、この頃アゴン宗にこってなさるようだが、何でもアゴン宗の(実際にあるそうだが私は知らぬ宗教)修業をつむための業を、とってると云う事だが、(一人でしゃべりまくる為、私の返事ならず)わしゃなあー。何故、あんたがその宗教に走ったものか、又、どんな心境から業をとってなさるもの

 

か、色々と知りたいと思うのだが」と、云うことで、肝心の私は寝耳に水。さっぱりわからぬ。よく聞くと、ある人がこのMばあちゃんに、「お宅で一ぺん見た事のある人ですよ」と云われた事で.事態は驚く話となったのです。十五年もブラジルに住めば、何かのまちがえとは云え、私もとうとうアゴン宗と云う、アリガターイ宗派の、やがてはなるであろう、教宗様に、まつり上げられ

 

るのか、さすがブラジル。日本ではありそうもない話も起きぴっくりしてます。同じ志を立てて十五年前に、渡伯した仲間の中に、色々の事情で帰国された方や、又、独身青年が家族をもちこの土地に新しい生活を営みつつ、それぞれの希望と、せつない願いを、織りまぜて、一年そして、又、一年と過ぎて行きました。今、ここになつかしい顔、顔が集まり、想い出を語り、そして、再び

 

又、一同が寄る日の来る事を、堅く約束して、十六年目の出発の年が来ました。何時までも、よき友であり、よきSESAの会があり、お互いに、励しあって行けるよう、望みたいものです。そして、私共の、やりとげる事が出来なかった幾多の大志を、次の世代の子供達に、夢を託して、ブラジルの大地に、しっかりと根をはり、大きく羽ばたく日の、来ることを、願ってやみません。

「今、私は」

    高橋 文子

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 私は十五年前、ブラジル行きが決まりとても楽しく思っていた。行く二、三ヵ月前から、いつも友達に囲まれうらやましがられたり、プレゼントを頂く事はとても気持ち良かった。でも、プラジルは地球の反対側と言われても、ピンとこなかった。その当時八才の私には不安も好奇心もなかった。 友達や親せきの者に見送られ、私は母と兄と共に船に乗った。まるで四国に渡る宇高連絡船

 

に乗った気持ちでいた。船の旅行は最高だった。学校に行かなくてもよいし、食事はおいしくかたずけや門限の事で母に叱られる事は非常に少なかった。四十日が過ぎいよいよ下船の日になった。デッキからリオ・デ・ジャネイロが見えた時、初めて不安と好奇心がわいて来た。どんなアパートかな、ポルトゲースが分からないがどうしょう、学校は日本と同じだろうか、お父さんが迎えに来

 

てなかったらどうしょう。 楽天家な私は、何事も悩まずブラジル人の友達と遊ぶようになり、翌年の新学期には、ブラジル学校の一年生に入学した。日本だったら三年生なのに、一年生に通う事は何となくおもしろくなかった。でも、しかたがなかった、ボルトゲースが全然分からなく、A、B、C、と、初めから習った。だから今でも私の横文字は、ブラシル人の字と変わらない。一番が

 

っかりした事は、学校にプールと鉄棒がなかった事だった。 その頃、私は日本に帰る気持ちはなく、日本人である事をとてもきらっていた。ブラジル名は無く、言いたい事は言えず子供ながら、早くブラジル人にならなくではと思っていた。でも私は友達や先生に恵まれ、ブラジル人と成績を争ったり、ブラジル食を好んだりケンカをしたり、クラスで手を上げる事なとが出来るようになっ

 

た。新しい体験を通し、様々な習慣もおぽえた。 あっという間に十年が過ぎていた。ポルトゲースの方は不自由なく何とか付いて行けるようになったが、日本語の読み書きは全くだめであった。自分が日本人である事を思い出した。一生懸命日本語の勉強に励んだがなかなか日本語はむずかしい。今ではポルトゲースの本はきらいで、日本語の本は大好きてす。そして、日本人である事をう

 

れしく思っている。アルバイトでポルトゲースや日本語の家庭教師をしている。本当に両語が理解出来る事は、「得」だと思っている。 今、私は心の中で「自分がどの位日本人であり又、どの位ブラジル人であるか。」疑問が一つ残っている。

私の事業経験

尼ケ崎 道 男

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 今回、SESAの会、十五周年と言う事で、何かを書けと言う事で引き受けて、何を書いて良いか、一寸迷っている所です。 私もブラジルに去年で十五年、個人的にも今年の4月頃に、訪日する予定ですので、一つの区切りとして、私の今まで事業をやって来た事や、そういう過程での考えという物を簡単に書いてみたいと思います。自分で事業をやるきっかけというのは、早い物で十二

 

年前になりますが、ブラジリアのBANCO DO BRASILに日本電気のPABX・NG―403が入った事で、その工事や試験を、お伝いしたのが、自分でやり出したきっかけになり、現在では工事よりもキーテレホンの販売や、保守が主になっております。 又、危険分散の意味もあって、電話関係以外にも、ビデオクラブや電気製品関係の店もやっています。従業員が大体、三十名位、最低

 

の人員でやってます。幹部は意識的では無いのですが、親族て固める様になってしまいました。ブラシル人には、良い人も居ますが、仲々、信用出来る人は難しいし、特に販売関係では皆無と言っていい位、難かしいです。そのかわり、テクニコ連中には特別に苦労した事は殆どありません。曲りなりにも、今迄、十二年やって来て、やっているのは一番には運が良かったんだと思ってます。

 

よく人々に、事業をやる人と、やらない人は、どう違うと思うかと言う事を聞かれたりしますが私の考えでは性格の違いだと思っています。例えば、銀行に金を借りに行って恥かしがる人でも駄目ですし、又、厚かましい人でも金を貸してくれないでしょう。又、泣いて頼んでも、そんなに困っているんだったら返してくれるか心配されるでしょう。そこの所のかねあい合いが難しいと思いま

 

すし、又、借金にくよくよして、夜も眠ることが出来ない人、殆どの人だと思いますが、例えば、自分の財産を処分して、借金を払う時に、眠る事が出来る人は事業に向いていると僕は思います。私の場合には、妻(二世)やその妹の援助があって十分助けられた面もありましたが、アパートを処分して借金を払った四年位前から、自分が変わった事業に対して厳しく、又、ケチになった気が

 

します。しかし、経験というものは、本を読んで分かるのとは違って、’やってみないと分からんものだと思います。その他に、NDBやNESICの方々に色々と援助頂きました事を紙面でお礼申し上げます。何しろ、個人的には手紙は平均三年に一回という筆不精ですので、書き出すのが大変でした。ブラジルも前途多難な現状ですが、SESAの会の皆様にも、この場でよろしく! 簡単

 

ですがこの辺で。

釣った魚

皆川 匡

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 四日連休の初日と云うのに、空は今にも泣き出しそうである。何となく山の神を始め娘までがそううっそうである。その上二人の視線が遠雷の如くヒラメク。何も天気の悪いのは俺のせいではない自然現象に基づくもので逆に東北伯は雨乞いの甲斐もなく末だにセッカで困って居ることを考えれば雨も又楽しからずやだ。昨夜善き友に誘われてサンパウロで梯子酒、最後の仕上げも無事ナイ

 

トクラブですませ、そして御帰還が午前様。末だ頭の隅では昨夜のアルコールがうづを巻いているとは云え、飲める酒をスンナリ喉に流し込んだ丈けでボケる訳はない。ハハアあれが原因かと直ちに脳に情報が伝達されるところを見ると我輩の悩組織は末だ健在である証拠だ。何かのハズミに昨日出勤する時、「明日はクラブで水泳、シュラスコでもして一日を健康的に過そう」などと大それ

 

た約束をしてしまったことを忘れては居ない。しかし空模様、これは口実の公算大、俺の体調からとても約束など守れる筈もない。「リオに居た時はよく海水浴やらピクニックに連れて貰ったわね、それが近頃はチットモ」と二人で俺の顔をジロリと睨む。そろそろ始まったな、余り大きな爆発を避るためにも機先を制する必要がある。「お前は何を寝言云っているんだ、釣た魚に餌をやる

 

馬鹿が何処の世界に居る」、「いくら釣た魚でも餌をやらなかったら死んでしまうでないのよ」、「心配いらないよ死んでしまったら今度こそ俺にサシミを食わしてくれる大物を釣りに行くよ」。テーブルの上にはシュラスコ用とした準備したものと思われる迎酒とツマミが何時の間にか並べられていた。やがて焼肉の香が今朝の雲の様に部屋一杯に拡って行く。サシミにならず焼肉と変った

 

魚、持つべきものは女房である。

十五周年記念伯国狂想曲(国)

野中 基文

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 長い雨の日々が過ぎて今、べロ・オリゾンテ市は快晴の日が続いて、一月の豪雨がまるで嘘の様です。私の仕事場の机が窓脇にあるので時々、仕事の合い間にホット窓から東山三十六峰ならぬ、マンガベイラ公園の山々を眺めるのですが、その度、京都の東山を思い出して懐かしくなるのです。東山と私とは仲々深い関係があるのです。東山についての私の思い出は数え出すと切りか無い

 

ぐらいあります。幼い時から父が私と兄を連れて良く週末になると、東山へ出かけたものです。父は二人が相撲を取るのを見るのが好きだった様で、良く相撲を取らされました。本気になる私に往生した兄は、あの頃もう負け方を知っていたみたいです。何時も負けていたあの兄が小学校の相撲大会で優勝してから、兄に勝っても白らけてしまって、それ以来兄を相手に相撲を取らなくなりま

 

した。夏体みになると、殆んど毎日の様にセミ取り、トンボ取り、昆虫採集等に行き、母が良く日射病にかかるからとうるさく注意したものです。中学校へ行って、最初のデートも東山でした。伯国へ行った私が早く帰って来る様にと、母がお百度参りした日吉神社もこの東山にあります。ここまで思い出すと、懐かしさが悲しさに変って来るので目を窓から外して、仕事の事を考える様にし

 

ています。さて、本来の筆不精てここ四、五年日本へ一通の手紙も出さない私が、川崎氏に原稿を書く約束をしたのが一月の初め頃でした。書き始めるまでが大変でした。毎日、夜になると今夜こそはと机に向うのてすが、仲々良いアイデアが浮んて来ません。息子が休暇の旅先で病気になるやら、家でまたまた怪我をするやらで、ずーと伸び伸びになってしまったのてす。さて、この原稿も

 

ようやく今夜で完了のメドが立ちホットして、ウイスキーをチビチビ飲んでいると、酔が廻って来てこの十五年を振り返って見る雰囲気か出て釆たので、さてさて何か十五周年記念に相応しい物でも書かなくてはと思って、頭を働かせて見るのですが、回り燈寵の様に種々な思い出が廻り始め仲々止まりません。飛行機がエア・ポケットに落ちて、もうこれて終りかなと思った事や、冬だと

 

いうのに大変暑かったガレオン空港、清水君と一緒に下宿したコパカバーナのアパートやカシルダおばさん、週末になるとみんなで良く飲みに行ったボアーテ、グラジアウの電話局、通訳のロべルト・中野さん、ブラジリアのマージャン大会、尼ちゃんの結婚式、亡くなられたナべちゃんこと渡辺さん、田舎のアナポリス市、皆川さんと山崎さんの交通事故、自衛隊こと野平君、森下君、小宮

 

君と高橋さんの息子さんと行ったフォス・ド・イグアスー、ウベラバ市、ウベルランジア市、高木さん宅での居候、そして十年前のベ口・オリゾンテともう本当に止る所を知りません。十五年と言っても只、速いなあと言う感しで、私の場合サット過ぎてしまいました。真に光陰矢のごとしであります。ベ口・オリゾンテ市へ移ってから今年の六月でもう十一年になります。この間、時々仕事

 

でリオ市へ行きその度、高木さんと良く会ってもらって、昔の仲間の近況を知らせてもらう程度で殆んど個々に会う機会がありませんでした。十五周年記念のシュラスコは、絶好の機会でしたが残念ながら一日遅れで参加出来ませんでした。 その代り仕事の都合で四日間NEC社へ行く事になり、教年間会った事がない人達と会える事が出来て大変懐かしく思いました。特に細江さんとは伯

 

国へ来る時の飛行機内で席を共にして以来、実に十五年振りでした。この十五年間本当に種々な事がありましたが、伯国での十五年間は、私にとって幸いにも良い事が悪い事よりも多くあった様な気がします。これから先もこのようにあって欲しいと思っております。

VIVA 15 ANOS DE SESA- NO- KAI

Tereza R Wada

 Passamos 15 anos rapidamente.

Até parece que foi ontem, conheci meu marido em Junho de 1969. Numa festa no   BUNCA-KIYOU-KAI, ele tinha dificuldade de falar o português, porém eu o entendia muito hem, pois eu passava os meus melhores momentos, na cultura do Japão, admiro muito o povo japones, os seus costumes, sua educação e cultura em geral.

Casamo-nos em Janeiro de 1970.
A patir dai, comecei a entender profundamente a tradição Japonesa. a qual achei muito difícil ser entendida.

A profissão do meu marido é de constantes viagens nesse período de ausência, eu proculava aprender em livros e com amigas e professoras japonesas, tudo sobre o Japão, principalmente, a cozinhar as comidas típicas.

As constantes viagens à trabalho do meu marido, eu entendo, pois essa é sua profissão e eu a aceito, nossa vida depende do seu trabalho.

 

Sempre respeitamos nossas tradições, Brasil e Japão, as vezes surgiam desentendimentos em diversos assuntos, pois somos de abitos muitos diferentes.

Com o nascimento do nosso primeiro filho, escolhemos seu nome em portugues e Japones, pois a nacionalidade do meu marido é Japonesa e braslleira, podendo optar por uma das duas.

Quanto a educação de nossos filhos, nós ensinamos mais a Japonesa.

Por exemplo: Quando se pede um cigarro, não entregar somente o cigarro, mais Junto o fósforo e o cinzeiro.

Temos dois filhos, um menino com quase 14 anos e uma menina com quase 12 anos.

Nós mantemos essa tradição educacional, nós queremos que nossos filhos mantenham essa tradição. Queremos que a futura geração dos nossos filhos, mantenham essa tradição.

 

Nosso desejo é levar nossos fllhos para conhecer o Japão, queremos que eles sintam de perto o que é tradição Japonesa, também conhecer a famílila, e principalmente minha sogra, como ela educou o pai deles, para que sintam que não é só educação, mas outras qualidades. E eles entenderão o que é educação e como é necessária para cada pessoa.

 

Como passaram rapidamente 15 ANOS, daqui a mais 15 anos, teremos netos, e queremos ver como nossos filhos aplicaram essa educação que nós ensinamos a eles.

編集後記

 皆様の多大なる御尽力に因り、何とか遅れ馳せながら渡伯十五周年記念星座の会特別号を発行する事が出来ました。御礼を申し上げます。

 ポルトガル語を解せずに渡伯し、スタンダード社へ入社して以来十五年を経た現在、一つの区切りとして共通の歴史であるスタンダート社にての思い出を今回の紙上に載せる予定にしておりました。しかしながら、資料不足、連絡不足及び時間の無さにより、断念しなければならなかったのを残念に思っております。

 次の機会でこの念願が叶えられる事を切に願って止みません。皆様の一層な御協力を御願い致します。

 今回の紙上で渡伯者七十五名の一覧表を不備ながら作成しました。不備か不正確な点に御気付きでしたら、その点を編集者か事務局長宛に連絡して戴けれは幸いです。

 

 編集者 皆川 匡、 川崎 武彦 
 

 

 

 

  

 事務局長 田中 公

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