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星座の会 35周年記念誌

プログラム

   A)    慰霊法要 (ミサ) 曹洞禅宗 南米 別院仏心寺 
                 
                         住職  三好晃一

物故者

伊藤憲之1969年

渡辺邦雄1982年12月14日

林 恒夫1995年12月14日

関口晴夫

押川宗治1999年 5月27日

田中潤1997年 1月 7日

     B)     式典 

           司会                        岩田俊幸

           式典委員長 挨拶     山崎正美

           来賓者祝辞

      C)     記念撮影

      D)     昼食

                  乾杯音頭                    田中 公

      E)    演芸会 

          近況紹介

          カラオケ

                  星座の会の歌斉唱

          その他かくし芸

(1)

星座の会35周年記念式典によせて  2004年6月吉日

    星座の会 会員各位                     栗林 茂樹

 

  この度は、星座の会35周年記念おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。さて、
  思いもよらず田中様から星座の会35周年記念式典のご案内を頂戴いたしまして、驚きと懐

  かしさでホームページを含め一気に見させていただきました。心から厚くお礼申し上げます。
  しかしながら、今回は勤務の都合で出席できません。せめて私の近況報告というかたちで参

  加させていただければ幸甚です。ホームページで皆様方の近況及び活動状況を拝見致しま
  したが、今も夢を持ち続けて頑張っておられます事に敬意を表します。「継続は力なり」と申し

  ますので、皆様方の志がきっと大きな力となって、二世、三世へと引き継がれる事でしょう。
  皆様同様、私も夢とチャレンジ精神を持ってブラジルに渡り、10年近く仲間と苦楽を共にさせ

  ていただきましたが、残念ながら家庭の都合で帰国することになり、早26年の歳月が経過い
 たしました。今もその精神は持っているつもりですが、私が住んでおります松山は小都市で

  雇用条件も厳しいため、なかなか思うようにはゆきません。ご承知のとおり日本は資格を重
  視する社会で、しかも、環境問題が厳しい近年は、資格取得がサラリーマンの職務の一環と

  なり、私も帰国してから現在もその為にいろいろとチャレンジしております。一方、当地は温
  暖で、海、山、温泉と素晴らしい環境に恵まれ、また、美味しい食べ物が豊富ですから、リタ

  イヤいたしましたらのんびりと過ごすのには最適な所ですので、気負わず、気楽に日々を送っ
  ている今日この頃です。そして、今振り返ってみて、10年近くブラジル生活を経験した事が、

  私の心の大きな財産となって人生を豊かにしてくれたと、感謝の気持ちでいっぱいです。ブラ
  ジルで共に働き、また、お付き合いくださった方々にこの書面をもって厚くお礼を申し上げま

  す。来年は定年を迎えますので、2~3年後には是非ブラジルを訪れたいと思っております。
  その時はどうかよろしくお願いいたします。皆様にお会い出来る日を楽しみにしています。

  ブラジルも日本同様で不景気な時世のようですが、健康に留意されこの局面を皆様の持ち
  前のパワーで乗り切られますことを切に願っております。

 

  最後に35周年記念式典が実りある会となりますよう、そして、星座の会の益々のご発展と
  会員各位のご健勝を祈念し、誠に簡単ですが私の近況報告とさせていただきます。

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我がブラジル流浪生活35年を顧みて

                                   1968年12月21日渡伯           田中 公

 

  15周年記念誌にも書いたが、私のブラジル移住の目的そのものが曖昧と言うか、不純と言
  うか気ままにブラジルへ来てしまった為、ブラジルへ来て生活しはじめてから模索するように

  なった。今にして思えば、定職が有って当時は他の移住者の人たちより報酬の面でも恵まれ
  ていた事が非常に幸いだったと思うし、又それが大きな人生の賭けをするような事も無く、の

  んべんだらりとして今日まで来れた要因ではないだろうか、ブラジル日系移住者の中を見渡
  せば、波乱万丈の人生を送った人、なんのためにブラジルくんだりまで来たんだろうと嘆きなが

  ら一生をマット(叢林)の中で過ごした人、自分の子供の教育のため、田畑で自分の身を粉に
 して黙々と自分の一生を犠牲にした人、第二次世界大戦時せっかく財をなしていた物を全部

  失った人、あるいは戦後の勝ち組、負け組の抗争の犠牲になった人、経験の無い農業の重
  労働に耐え切れなく夜逃げして、辿り着いたサンパウロで身を落してしまった人、日本食レス

  トランや写真店で成功した人、希望に燃えて力闘の中、病魔に倒れた人、成功を目の前にし
  て車禍や凶弾の事故に遭遇した人など等、それこそ移住者100人に100人の歴史が有るだろ

  う。人間の幸せの定義は非常に難しいが、 私の人生は非常に恵まれていたと明言できるだ
  ろう。いや私達SESAの仲間のおおかたがそう思っているだろう。私の場合は、ブラジルに来て

  たくさんの周りの人々が親切にしてくれた、助けてくれた、お付き合いしてくれた、これが一番
  の幸せであったと挙げたい。特に星座の会の仲間はみんな兄弟以上に近親感を覚える。私

  達は当時はめずらしい航空機での移住で、移住の旅の時間が船旅に比べ非常に短く、渡航
  中の思い出など他の移住者達と異なり皆無だし又横のつながりというか新しい知り合いと言う

  かSESA以外の日本人とのお付き合いもあまり無かった事を覚えている。そんな中、高橋潔さ
  んと知り合えたのは幸運だった。というのは高橋ご夫妻は大変交際が広く、ブラジル渡伯瞬く

  間に、 サンパウロへ行ったり、レジストロへ行ったり当時の日系移住者の社会との交際を始
  め られた、自然と私もお誘いを受け先輩達日系移住者の世の中、社会構成の窓口を案内し

  てもらい、仕事以外での知り合いが出来てそれがきっかけとなり更に輪が広がり、そして、先
  輩農業移住者の昔の苦労話を聞くのが楽しみになり、又先輩達は待ってましたとばかり、こ

  の新移民に苦労話と自慢話の入り交じった自分達の事を語ってくれた。 ブラジルでは親兄
  弟もいない中、この歳まで無事にのんべんだらりの人生が送れ、そして今、年金生活の第二

  の人生をスタートしてまだ間もないが、毎週毎週カラオケ大会で歌を歌いながら、自分の幸せ
  を身をもっ て感じるものです。今日は星座の会35周年を記念するにあたり、改めまして皆様

  に感謝し、末永くお付き合いをお願いする次第です。自分史にはなりませんでしたが、次回40
  周年の折りに は自分史を作りたいと思います。それまで皆様ご健康でご活躍され、5年後の

  再会を希望するものです。

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心の絆

                             松岡(旧姓山崎)直美

 

  「星座の会」創立35周年おめでとうございます。スタンダード社との労働契約という好機を得
  られて、日本とは反対側のブラジルに夢を追ってこられた75人の技術者の皆様、たいへんご

 苦労様でした。 両親に連れられてリオデジャネイロに11歳で到着した私の過去を振り返りま
  すと、いろいろな思い出が脳裏を駆け巡りますが、その中でも星座の会の方々と共に楽しく過

  ごした親睦会や小旅行が、特に印象深く私の胸に焼き付いております。異国での生活は常に
  努力と忍耐が必要となりますが、  星座の会で育まれた強い心の絆が温かい励ましとなって、

  とかく自己を見失ってしまいそうな私達を支えてくれたのです。 ブラジルでの、このような様々
  な体験が、 これまでの私の人生の岐路でたいへん重要な指針となっていまして、それらは私

  の宝物なのです。会員の皆様におかれましても、このブラジルで通信事業に長年貢献されて
  きた背後には、 言葉や文化の違いからくる並々ならぬご苦労がおありだった事と推察いたし

  ております。現在、そのご苦労が実りそれぞれ立派なご家庭を築かれ、この地に新しい歴史
  の一ぺージを作ってこられました。日本とブラジル。この素晴らしい二つの祖国を愛すればこ

  そ、かけがえのない幸せを手に入れる事ができるのではないでしょうか。私は、星座の会と共
  に歩んできたこの35年間の貴重な体験を生かして、日本文化の素晴らしさや、 母なる大地こ

  のブラジルの包容力を、世界に発信していきたいと考えています。ブラジルという第二の故郷
  で第二の人生を切り開いてこられた諸先輩の皆様 、この度の創立35周年記念、本当におめ
 
  でとうございます。

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移住35周年記念 自分史

                                    山崎 正美

 

  振り返って見れば歳月の過ぎ行くのは早いものです。 技術移住者として当国に定着して
  以来、今年で35年の経過を得た今、  想い起こせば当初通信関係一筋でありました。機械工

  事から線路工事へと移行し、数年間従事する中で企業に於ける事業拡張に伴い、原価管理
  から安全管理へと担当いたしまして、サンパウロ州内を初め、更に他州への伸展、且つ昼

  夜を分かたず懸命に仕事に邁進した時期もありましたが、若い頃は気力と活力で通信事業
  に貢献し寄与できた時代であり、今更ながら当時を懐かしく思います。小生も現在では年

  齢から判断して後半を過ぎました  。記憶も正確さを欠く所が多々ありますが、星座の会の仲
  間による色々な集 まりの中で、 同志渡伯15周年特別号に於ける記念史を発行された事や、

  日本カントリークラブでの記念行事には遠距離にもかかわらず、家族も含め、多数参加の上,
 かくも盛大に実行出来ました当時を思い出し懐かしく思います。そして、以前の様々な懐かし

  い記録は現在も保存され、 人生として楽しかった有意義な場所での思い出として心に深く収
  めております。又、色々な試練の中で経験もなく、一時期ペンソンを手始めましたが、維持そ

  のものに自身の性格が合わなく、他の人に譲り、急遽、日本の通信工事会社に入社いたしま
  した。数年間従事している内に、企業としてブラジル進出の意向で、企画部担当に推薦され、

  住み家と往来出きる機会に恵まれました。しかしながら、日本の通信工事業も将来的には限
  界が見えはじめ。日本における私の目的もほぼ達成されたのを機会に、私の生涯を託す住

  み慣れた我が家に戻り、現代に至っておりますが、今日元気で過ごせる事の喜びを感じ、
  もう少し人生の修行を積む為にも健康維持に努めている昨今であります。 

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電話屋さん

                            皆川 雄

 

  仕事を始めてから年金生活に入る迄、  総て電話屋生活でありました。まず、磁石式交換
  機, 電電公社の工作工場に、公社退職の爺さんに教わりながら、交換機を収める仕事。そし

  て有線放送用の交換機を日本電気の芝浦工場に収める仕事。これらの事を平行しているう
  ちに擬似呼試験機の製作が日本電気より入り、その製作もしました。そうこうしているうちに、

  仕事上の先輩より、工事をやらないか、工場の中での仕事より良いぞ、出張が沢山有る。
  (工事とは, 交換機の据付試験工事の事です) と言われ、面白そうだと思い工事会社に入り

  関東一円ですが、半分は東京、後は地方周りの工事屋生活です。初めのうちは交換台の仕
  事が結構有りました。群馬県の田舎の磁石式、千葉県の中都市の共電式等の内、東京の

  丸の内の市外局は何と言っても忘れられない局でした。  なにせ四千人からの職員の中95パ
  ーセントが女性職員です。 我々は20代の如何にもならない若者ばかり、  監督から工事長ま

  で、うるさいのなんの、エレベーターの中では女性職員の顔を見ちゃいけない、話し掛けるの
  はもっての外、特に切替の時など主幹とか言う白髪の婆さんがデンとかまえていて我々をジ

  ロジロ見ています。切替は徹夜仕事です、交換手も夜勤が有り毎日何人かが泊まり込みで寝
  室もちゃんと有ります。上の人達の心配は分からないでは有りませんが何時も疑いの目で

  見られるというのは愉快なものでは有りません。又新入生が汚い仕事、たとえば古いケーブ
  ルの撤去とか掃除とかをやらせると、すぐ埃だらけになります。大勢の交換手の中には昔の

  同級生なんかがおりますから、恥ずかしがって嫌がるので困った事もありました。そのうち、
  クロスバーになってからはそうゆう事も無くなり、何時の頃からか我々の職業はと聞かれる

  と「電話屋」と言うようになりました。八百屋、魚屋、等々、自嘲を込めての「電話屋」です。
  やってる事が何々屋なのです。そんな、こんなで、まあ独身者の根無し草、  あっちへふらふ
 
  ら、こっちへよろよろ、と とにかく生きているうちに、友達の門ちゃん事、門長秀男さんが、新
  聞でブラジルのリオデジャネイロと言う所の会社が電話の工事屋を募集しているから行かな

  いか。と言うので冷やかし半分面接を受けたところ、  給料が大変良いので一緒行く事にしま
  した。昭和44年1969年4月の事でした。誰でも忘れられないあのリオのガレオン空港のむっと

  する暑さ。カリオカの言っている事が全然判らなく、ただ“ポー、ポー”と、しか聞こえません。
  ペンタコンタは初めてだし、ポルトガル語は判らないし、ま あ楽では有りませんでしたが、リオ

  は良い所でしたね。景色は良いし、食べ物は美味いし、  カリオカは綺麗だし  、給料は悪く無
  し、で。さらに、なんと言っても責任の軽さです。日本では納期だ、予算だ、公社の監督だ、上

  役だ、と息のつく暇も無かったのが、ただポルトガル語とペンタコンタの勉強だけですから、楽
  しかったですね。おかげで給料は全部どっかへいってしまいましたが。リオに来てからは皆同

  じようなものでしょう。私の場合はリオに始まって、ブラジリア、マリリア、ウベランジア、リオグ
  ランデ ド スールと渡り歩いている内に、重い荷物を背負う(Casado)ことになったりで、 又リ

  オに帰って来て、最後はブエノスアイレスで。ペンタコンタ一筋、リオに帰って来たら、 既に居
  る場所が無く、はぃさようなら。でスタンダードの12,3年は終り。 旅又旅の(と言っても半分ぐ

  らい)給料暮らしは終り。  さて、 とブラジリアの尼崎さんの所でPBXを一年ぐらいやりました
  が、どうも実入りが少ない。 それでサンパウロに出てきて、ボビエルとタンデムの下請け。此

  れはもうごっちゃ混ぜ、何でも有りで。まず交換機関係ではエリクソン、ペンタコンタ、NEC。
 MTS(セルラー)、EMBRATELはトランスミッソンと兵隊さんを何人か使ってですから、こ
 
  れは、もう電話屋では無くて、税金と給料の仲介者。  まず親会社よりお金をもらい、税金を
  払う、(此れが腹が立つ沢山有って)。 そして兵隊さんの給料を払う、残ればそれが私の取り

  分となる。良く言へば、皆んなに給料を払い、 税金をちゃんと払う、 世の為人の為にやって
  いる。悪く言へば“ピンハネ”となります。そんな事を旅をしながら、(やっぱり放浪癖は直らず

  サンパウロ州、に始まりバイア州、リオ、ミナスもちょっと、パラナ州と渡り歩く。)20年近くやっ
  た事になります。その間、妙な事も有りました。何時でしたかバイア州の田舎町の仕事をして

  いた時です。部品が足りなくて隣り町に在るテレバイアの倉庫に向かっている時です(80か100
  Kmぐらい)。運転していると眠くなるので、大声で歌をうたいます。その時は思いつく限りの歌

  を歌い尽くし、 何気なく昔兄貴が会津中学に入ったばかりの時歌っていた学校の歌うたいま
  した。そうしたら涙がポロポロ出てきて止まりません、 拳で霞む目を拭きながら何分間かを走

  りました。如何して涙が出たのか判りません。18で故郷を出てからこの歌を歌ったのは1度か
  2度目です。涙が出るなんて、こんな事はかって無かったのに不思議な事です。 但しあの涙は

  心地良いものでした。そして、2002年から3年にかけて、 仕事が全然無くなり兵隊さんを全
  部自由にしてやり、 会社を閉め(これも大変、一年位かかる)今は年金暮らし。ブラジルの年

  金制度は素晴らしく、公務員には大変良く、我々民間には雀の涙。 せめて象の涙ぐらいにな
  ればと思っても夢の又夢でどうにもならず、 楽しくやってます。 ただブラジルだけがと思った

  ら、 日本でも公務員が断然民間より良いのだそうです。 ただ普通の人には判り難くなってい
  るだけなのだそうです。こんな訳で物心付いてから、 磁石式交換機からピンハネまで総て電

  話に関係して生きてきましたが、今は素晴らしいブラジルの年金で夢のような生活です。思え
  ばそれぞれの場所、時々に色々有りましたが、 楽しい事、苦しい事が有ったはずですが、不

 思議と楽しい事しか思い出しません。ことにカリオカと働いている時は楽しい事が多かった様
  です。彼らは何時も楽しむ事を忘れない人達でした。アルゼンチンについては「アルゼンチン

 人は正装した泥棒」だ、とブラジル人が言ってましたが、まさにそのとうりであんまり良い印象
 ではありませんでした。パウリスタは比較的真面目、ガウショはカチカチ(他州にくらべて)バ

  イアノはまさにバイアノで、もしこの世の人達が総てカリオカとバイアノだけでしたら、楽しいで
  しょうね。まず進歩 (総てにたいしての)進歩は考慮がい、 原始時代に毛の生えた様な世の

  中がずーと続き進歩も何も有ったもんじゃ有りませんが、良い世の中でしょうね。進歩なんて
  有っても無くても、「それがどうした!」と言われてみれば、 無いほうが世の平和の為には良

  いのですから。まあ変な話になってしまいましたが、前(元)電話屋、ずーと「毎日が日曜日」を
  やっております。

                   平成16年6月 吉日 ブラジルは

                         サンパウロ にて   皆川 雄

  では 蛇足ながら、私の涙を誘った歌の歌詞を記します。学校は旧制の中学です。

      飯盛山の 桜花         

      鶴ヶ城跡の 秋の草

      会津平野を 行く雲の

      移り変われど 若人の

      理想は永久に 変わらじな

 

  飯盛山は かの白虎隊の少年隊士が戊辰の役に切腹した所。

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35周年記念によせて

                             高木  啓次

 

  振り返りますと本当に早いもので、35年のブラジルでの生活は織田信長ではありません
  が、まさに夢幻の如くなりの思いで一杯の今日この頃です。 此れは私一人のみならず、

  SESAの会員皆様にも共通するものと確信致して居ります。定年退職を迎えた一昨年、
  家内とも相談の結果、南緯4度に在るセアラー州の最初の州都 Aquirazを最終住所と決

  め、今日に至って居ります。現在地は、Fortalezaより東へ約30Kmに位置し常夏の地で
  ありますが、住み慣れると季節の変わり目が有る事にも気づき、鳥の鳴き声、木々を揺ら

  して渡って行く風、名も知らぬ野草や花々そしてこの土地ならではの果物や食べ物に囲ま
  れた毎日を満喫致して居ります。35周年式典に参加された皆様方の元気なお姿に接し、

  35年前のリオデジャネイロでの懐かしい日々や、様々の出来事がほんの瞬間ですが走馬
  灯の様に浮かんで消え、年月の過ぎ去った速さを確かなものと思い知らされました。お互い

  に年を重ね、昔の面影も遠いものと成りましたが、健康に気を配り無理をする事無く、次の
  再会を目的とし、頑張って行きたいものと念じて居ります。

 

  簡単では有りますが、現況報告方々、思い付いた事を書き並べました。

 

                                   以上

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星座35週年記念開催感想文

    去る7月10日七夕祭りの良き日にサンパウロに於ける岩手県人会館にて、我々有志技術
  移住として節目の年である記念行事の開催に際して、地元を始め当初着伯致しまし た。リオ

  ・デ・ジャネイロ更には セアラーからとパラナそして  ポルト・アレグレから遠路遥々来場下さ
  れ又、当国に一時滞在中の中村氏を高橋氏の計らいで来客として迎え、多数の参加を願い

  久し振りに懐かしい昔の同士と一同にお会い出来大変意義のある機会を設けられた喜びを
  痛感する次第であります。当日の開場では若干の記念写真を展示し音響操作は専門の高

  橋氏に依頼して、岩田氏の名司会から始まりプログラムにもとづき仏心寺より他界された仲
  間と御家族の慰霊法要を行う中、各位による霊の冥福礼拝が続きました。そして式典委員

  長から挨拶があり石田氏の可愛いお孫さんより花束の進呈を受けた後料理業者奄美での
  注文による飲食にはビールを始め、飲料水、寿司、刺身、その他の御馳走が並び田中氏か

  ら健康を祝す音頭により全員で乾杯し差し入れの日本酒やウイスキー等で昼食を楽しみな
  がら石田氏が皆さんと共に旧交を語 り合い有意義な時間を過ごされる雰囲気の中でカラオ

  ケによる美声の披露等、活気溢れる拍手の連発で開場の盛り上げに邁進される田中氏か
  らの指名での近況紹介など愉 快な場面が数々あり、予定の時刻も過ぎるほど舞台は最高

  潮となり記念写真や美味しいケーキを戴くと共に、別れを惜しみながら皆で合唱し次回の再
  会を心で誓い感無量の内に無事終了となりました。そして、参加者の感想としては、大変好

  評であった事も今後の励みとなるものと確信する次第であります。又ニッケイ新聞社より星
  座の会 記念式典についての記事が7月9日に出ていましたが当日は記者が来場されており

  13日の紙上では通信拡張で貢献と大きく記載されました。

 尚、記念すべき良き日に体調の不調やその他の理由により参加出来なかった仲間もおりま
  すが次回は是非元気な姿でお合い願える様心待ちいたしております。

 最後に式典準備には大変御協力を戴きました皆様には心から厚くお礼を申し上げ感想文と
  致します。

                     2004年7月23日 山崎正美

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