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 (196) 2025/01/19  先亡者追悼
 私達が1969年にリオのスタンダード社に入社してから今年で55年になりました。その間大半の方達は日本に帰国されブラジルに残って頑張っている人達は少なくなりました。現在サンパウロに生活して居る者は9名になってしまいました。総勢75名がブラジルに来たのですが現在までに判明している死亡者の数は28名です。他にも死亡されている方があるかも知れませんがこの28名の方達のご冥福を祈り思い出の写真をのせて追悼したいと思います。
35周年記念式典2004年7月10日
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50周年記念式典2019年7月27日
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(197)2025/02/17  内田さんのご家族の消息
 内田啓司さんが亡くなられてからもう12年も経ちました。
最近奥様のお友達から家族の写真が送られてきましたのでここに掲載いたします。娘さんも立派に成長され、息子さんも今では日本で著名な映画監督さんに成っておられるそうです。
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娘さんと奥様の元子さん
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(198)2025/04/13  野中基文さんの金婚式パーティの招待状。

   前略。

   皆様 御元気でお過ごしの事と存じ上げます、この度 下記の様に細やかな金婚式 を行ないますので招待状を 御 送りします。 種々と 御忙しい事と存じ上げますが もし参加可能なら御一報下さい。

  ​野中基文

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 清水晴司さんからの返信 

 野中君。ご結婚50年、心からお祝い申し上げます。雨にも負けず、風にも負けず、お互いにしっかりと支え合ってこられたお二人の道のりに乾杯!おめでとうございます。

ご招待いただいた金婚式に参加できなくて申し訳ございませんが、どうか末永くお元気でお暮らしくださいますようお祈りいたします。

 

 また、人生の御手本であり大先輩である石田様ご夫妻や高木様ご夫妻も、それぞれプラチナ婚・ダイヤモンド婚に向けて歩んでおられること、誠に喜ばしい限りでございます。それと同時に、彼等(私達)同じ京都出身で、同じふるさとを想い起こすことが出来ることに、以前から、なぜか私はある種の誇りさえ感じてまいりました。と言うのか、なぜか最近、昔の京都のことが大変懐かしく想い出されるのです。京都を出発する一ヶ月くらい前だったと思いますが、移住の為の後送荷物のことで、野中君の家に母と伴に何回かお邪魔させていただいたことや、その時、お母さん(小柄で優しそうなお母さん)やお兄さんともお会いできたことなどを懐かしく想い出しています。

 

 実は先日、渡伯当時に母から送られてきた手紙を整理していたら、封筒の中から白黒写真が数枚出て来ました。確か1969年8月14日だったと思います、京都駅新幹線ホームで、私達ブラジルへの出発時に行われた、簡単な壮行式の様子が写っておりました。見送りに来てくださった方の大半は、勤務していた京都加茂電話局の方・高校時代の友人・それに野中君のご家族と私の家族であったと思います。野中君も持っておられるかもしれませんが、この写真を添付させて頂きます。あれから56年、既に後期高齢者の仲間入りをしている私達ですが、いつか4人揃って会える日が来ることを願っています。

 

 また、手紙を整理していると、石田さんと一緒に写っている写真が出て来ました。電電公社京都花背局での巡回保守の仕事の後、局の裏のきれいな川で魚釣りをした時の一枚です。これは、石田さんが作成してくださったサイト(下記)、『我が思い出の歌』に記載されている石田さんご自身のエッセイ欄にその様子が書かれておりましたので、この写真も添付させて頂くことにしました。また、高木さんの昔の写真も探してみたのですが、なかなか見つからず、一枚だけ色あせたものがありました。懐かしい思い出のひとコマ、これも添付させて頂きます、1970年撮影。

https://tsuishi.wixsite.com/omoidenouta

​京都駅 新幹線ホームで出発の時
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​京都花背郵便局の巡回試験の時、谷川で魚釣りを楽しむ。
​リオの街にて、左から菊本さん、高木さん、清水さん、岸さん、桒原さん
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(199)2025/04/15  訃報 斉藤正道さんが亡くなられました。
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 亡くなられたのは2024年4月14日18時頃。一年程前から膵臓癌の疑いで治療を受けられていて10回程の薬物療法を試みたけれど余り効果が無かったそうで、去年の年末辺りから入院されていたそうです。私(石田)のWhatsappの2024.12.25日に「石田さん、来年も良い年でありますように。」と返信が有りましたが病気の事は何も書かれていませんでした。彼は病気の事は誰にも知らせていませんでした。突然の訃報を聞き皆さんも吃驚しました。Velorioで最後のお別れの時に「昴」のメロデイが流されましたので、ここでも皆さん聞いて下さい。満天の星の一つになった斉藤さんを偲んで。
 今日本では桜が満開で桜吹雪となって散っています。この時期に斉藤さんも散ってしまいました。もう斉藤さんには会うことが出来ませんが彼を偲んでこの歌を捧げます。
 斉藤正道さんは1069年10月9日にリオに到着されました。スタンダード社に入社されて、私達がサンパウロのNECに入るまで一度も仕事を一緒にした記憶が有りません。NECでも彼は大分後から来られましたが、私が工事部に在籍していた時にも一緒に仕事をした覚えが有りません。私がNECを退職した後で星座の会の集まり等から付き合いが始まり、その後頻繁に呑み会等であちこち一緒に歩いたものです。当時の写真をコンピュータに保存したのが有りましたので、思い出しながら見てみたいと思います。
1971年10月31日スタンダード社日本人会の運動会にて。斉藤正道さんは左端上から下へ二番目。この写真には現在(2025年4月)までに亡くなられた方々が写って居られます。高橋さん、斎藤昭さん、林さんと奥さん、長田さん、
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2001年09月02日 アルジャーの森下さんの新宅へ招待された時。
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2002年10月12日 出張でバイーアの局に行った時。沢山の女性達に囲まれて。
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2002年11月12日 日本料理店サムライにて。
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2004年3月5日 日本料理店サムライに菊本夫妻を迎えて。
2004年12月16 サンパウロ メトロ コンセイソン駅の近くに旅行社を開く。
​社長
​二人の美人秘書
​2005年01月10日 サンパウロ シーフー中華料理店にて新年会の集まり。
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​2006年08月02日 サンパウロ Liberdadeの韓国焼き肉屋にて会合。
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​2007年09月16日 ベルチオーガ近くの斉藤氏別荘で60歳の誕生日祝い。
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​2010年09月01日 斉藤氏心臓手術全快祝い。Rua da GloriaのChurrascariaにて。
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​2022年09月17日 斉藤邸にて75歳の誕生日祝い。
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200)2025/06/20  訃報 高木啓次さんが亡くなられました。
 昨年(2024年)の末頃から高木さんからのメール等の連絡がピタリと止まりサンパウロ在住の皆さんが心配して電話を掛けたりしましたが電話にも応答が有りませんでした。
 それで「ナタウ市」にお住いの菊本さんに鈴木さんから電話で高木さんの様子を調べて頂くよう依頼されたところ、丁度菊本さんの娘さんがフォルタレーザ市にお住まいなので、高木さんの住所を訪問されましたが、何回行っても誰も出て来られない状態でした。
 最近になって菊本さんがフォルタレーザに行く機会が有り高木さんの家を訪問されると、高木さんの奥さんの身内の方が住んで居られて、ようやく高木さんの今までの経過が分かりました。
 高木さんは去年から喉頭がんで病院に入院して治療されていましたが療養中に肺炎になり、今年の2月10日に亡くなられたとのことです。それから菊本さんからの報告では高木さんは火葬にされて、日本の妹さんのご希望で分骨され日本に帰られたそうです。遅まきながらご冥福を祈ります。

 ​私達、京都市出身者は7名がスタンダード社に来ましたがその内 林さん、山崎さん、高橋さん、高木さんの4名の方が亡くなり寂しい限りです。特に高木さんは京都から来た中でもnecでも一緒に働きサンパウロの夜の街探訪にも共に随分と楽しんだものです。ただここ何年間は奥様の里のフォルタレーザに行ってしまわれあまり会う機会が無かったのが残念に思われます。

 
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2014年3月8日 私達(石田)の卒寿の祝いに参加して頂いた時。

 1984年11月に発行された星座の会15周記念号に高木さんが書かれた記事。               

               

               十五年を顧て

                 高木 啓次

 昭和四十三年の夏の終りだったと思います。昼の食事の後、新聞に眼を通していて、スタンダード社の電話技術者募集の広告に、出合わしたのがブラジルに来て、今日迄腰を落ちつける発端でした。気がついた歳頃から、これといった理由もないのに外国に憧れていて、それを満足させる為、文通と映画館通いに、今思えば本当に貴重な人生の一時期を費じたものです。其の後外国へ行く手

 

段を色々と考えたものの、いずれも問題が有り実現不可能と成り、もう諦めていた矢先の事でした。 三十一歳という齢を忘れて、直に京都府庁内に有った移住事業団京都支部へ連絡sし、当時の支部長であった川崎氏に手続き等の説明を受け、書類等を提出し、大阪で有った面接に行ったのが十月始めでした。其の結果として採用通知を受け、ブラジル大使館で入国審査を受ける為東京へ

 

行ったのが十月の終りで、十一月始めにはSESAの意向として月末には日本を発ってほしい旨連絡を受けました。夢を見ているような短期日に決まってしまったのでこれに前後して持上った結婚の話迄が、そのリズムに巻き込まれた様に婚約の形できまり、吾が事乍ら少し慌てたものです。ところが、当時勤めていました会社の方の仕事を他の人に申し送りする為の時間がなく、十一月末出発は難しくなり一度は採用辞退を申し出る事も有りました。但しSESAより遅れても良いらかと

 

のTELEXを受け、結局昭和四十四年一月の二十三日に両親、家族そして婚約者と成った女性の見送りを受けて、晴天なのに肌寒い羽田を発ち、一人でリオのガレオン空港に着いたのが同じ日付の二十三日午後でした。出迎に来て呉れたシャーペンティーエル氏とコパカバーナのホテルヘの自動車の中で下手な英語で話しをしたのがつい昨日の様に思われます。又その道で見た深い紺青の空

を背景に浮き出たコルコバードのキリスト像が今でも忘れられず時折同じ様な状況で見るキリスト像に、あの日もこんな具合だったと思い起す事が度々有ります。人間の一生を大宇宙に較べて見る時、それは極小のAにしかすぎない・・とよく言われますが、我が身に起る様々な事を思う時自分の一生は紙の上に引かれた一筋の線の様に、多少の揺れ動きは有っても始めと終りが生れだ時と死

 

を迎える時と言う形で決っている様に思えて成りません。 外国へ行きたいと思って居乍ら行く事が出来ずあきらめた頃にその機会が来たり、考えもしなかった南米のブラジルに住みつき十五年も過す様に成った事等、「運命」の二字で呼ばれる眼に見えない約束事の様に思われます。私と同様に十五周年を迎えられたSESAの会、会員皆様との関係も又日本へ帰られた人連とも「何かの

 

縁」という言葉でつながっでいるのではないのでしょうか?。各自の持つ運命として定められた縁が日本を遠く離れたブラジルという点で結ばれた、としか思えないのです。この縁は大事にして行きたいものです。嬉しい事悲しい事、いずれも済んでしまえば只、思い出と成るだけですが、皆で分ち合ってこの先、二十年三十年と生きて行きたいものです。そして何時に成るか判りませんが、

 

歳老いた皆が顔を合せて昔話に笑い合える日を迎えたえと思います。今だに青空に湧き昇る入道雲を見ると私の心は「見知らぬ遠い何処かに旅立ちたい……」と騒ぎ出します。しかし、それは何処か・・と問われても返事の仕様もない程、形も何もない目的地なのです。若さにまかせて飛び出して来た日本が思いも掛けず懐しい今日此頃です。

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1989年10月9日、元スタンダード社の日本人会でマイリポランに
​ピクニックに行った時の写真。ご婦人方にもてる高木さん。
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 2005年10月、田中公さんの息子さんがブラジル北東部を旅行し、フォルタレーザの高木家を訪問した際に撮影されました
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​2019年7月27日星座の会50周年記念の時の高木さん
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高木さんが子供の頃よく遊んだ京都市を流れる懐かしい賀茂川

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