我が思い出の歌
戦後移民の手記
小池 庸夫
序章
運命の別れ道
私の人生に於いて特に記しておきたいと思ったこと、それは運命を変える人と人との出逢い。何気なくさっと通り過ぎて行く出逢いもあれば、何時までも続く出逢いもある。もしあの時あの人に出会っていなければ、私はどのような人生を歩んでいたのだろうか。人は数えきれない多くの人と出会い、その中で本当に信じ合える人を見つけ運命を変える。
私の人生はそうした運命の人との出会いに依って大きく切り開かれて来たような気がする。私は日本人としての精神をこの素晴らしい国ブラジルに何らかの形で遺して行かねばならないと思う。さらに言えば、これが我々の使命だとさえ思う。移民制度も全面廃止となり、日本生まれの者も数少なくなり、以前は「明治を見たければブラジルへ行け」とまで言われた程、その精神性を豊かに受け継がれていた。今ではそれも次第に失われつつある。誠に嘆かわしい事だ。 私には特別に優れた頭脳も、親から譲り受けた財産も、スポーツ選手として活躍出来る体格もない。しかしこの恵まれた健康と出会いに依って、今幸せな人生経験を積ませて貰うことが出来た。
一九六〇年、単独移民としてブラジルへ移り来て波乱万丈の人生を歩み来て、私にしか経験する事の出来なかったこの道、六歳の物心付き始めた頃の事から振り返って綴ってみることにしよう。
第一章
戦後の日本 幼少の頃
一九三九年生まれ、故郷は広島県大竹市、まだ古き仕来たりが残っている所だ。私には二歳年上の姉と六歳年上の兄がいる。私が生まれてすぐ南朝鮮のクンサンと言うところへ移り住む。当時の南朝鮮は満州と同じ日本の支配下にあり、私達一家は日本人集団地に住んでいた。父は東京農大を出て獣医の資格を得ており、芝生の庭有り、大勢の使用人も居た事などおぼろげながら記憶している。気候は日本より寒く、冬にはオンドルという床暖房によって各部屋の床を暖める、母は余り丈夫な身体ではなく、父と揉め事があれば何時もお仏壇の前で手を合わせ泣いていたようだった。
戦争という悲劇によって私達の家族の生活は一変した。第二次世界大戦一九四〇年(昭和十五年)九月頃から始まり昭和二十年、私の物心付く六歳の頃、広島と長崎に原爆が投下され終戦となる。その頃、南朝鮮に居た我々の上空をアメリカのB戦闘機が、白い尾を引いて飛んで行くのを見ていた父は、日本人集団の殖民地を守るべく何時でも日本刀を身近においていざと言うときにと備えていたが、遂に日本は敗戦国となり、現地に居る日本人全ての財産を放棄して日本へ引き揚げねばならなくなった。
大陸の満州国もそうであった様に、朝鮮に居た私達一家も着のみ着のままの状態で引き揚げを開始、そればかりか敗戦国民となった我々、中には現地人に襲われる者もあった。私達家族は運良く現地人に守ってもらい近くの汽車の駅迄馬車を仕立ててもらい、漸くたどり着くことが出来たが、母は弱りきっており、どこかで転倒し、尾骶骨を打って座骨神経麻痺で半身不随、腰から下は動かなくなる。駅から港まで汽車で移動するが、汽車と言っても貨物列車、小さな窓があるだけ便所も何もない、幾日かかったのか、漸く日本への引揚船が出る釜山港へたどり着くことが出来た。そこは引揚船に乗る順番を待つ為の倉庫で収容所として使われていた。
第二章
三人の幼子を遺して
最期を迎えようとした母の思いは......やっとたどり着いた収容所内で遂に力尽きた母は医者にかかる事も出来ない、薬等手に入れる術もなく横たわった母のかすかな呼吸を確めるためか、母の顔の上にティッシュのような薄い紙を載せる、フワッと顔からずり落ちる、また載せる。そうしたことを繰り返す内、遂にその紙が落ちなくなってしまった。母、よし子、明治四十四年生まれ。昭和二十年十一月三十日午前五時、朝鮮釜山駅構内にて逝去、享年三十四歳だった。
明治生まれのあの厳しい父が掛けているメガネを外し涙を拭っている。その歪んだ顔を見て子供心にも何か大変なことが起きたこと......皆と一緒に泣いていたのだろうか......母が息を引き取った後、父は茶碗に山盛りのご飯の真ん中に箸を立て母の枕元に供え、弱った母が少しでも元気を取り戻せたときの為に用意して置いたものであろうか、私達に生卵や注射液のブドウ糖等飲ませてくれた。父が遺体の火葬を終える迄に収容所の皆はどんどん引き揚げて行ってしまい、私達は最後の組となり、倉庫の中はがらんとしていた。日本へ着くまで其々に持てるだけの荷物を担いでゆかねばならぬ。私はまだ六歳、これまで荷物など持ったこともない背中にリュックを担ぐ練習をさせられるが、重みで後ろにひっくり返る。すると父から「もっと前にかがむのだ......」と叱られながら......私の持ち物はそのリュックサックと母の遺骨だった。
そうしていよいよ乗船の日が来た。南朝鮮はその頃既にアメリカの支配下にあり、日本の兵隊は一人も居ない。アメリカ兵が片言の日本語で「ハヤクハヤクイチレツニ」と言って船に乗せる。そうして乗船した我々にアメリカ兵が乾パン (硬いビスケット塩味)の袋を投げてくれた。その中に金平糖、小さな凸凹の指先ほどの砂糖の塊が入っていて、食べる物もないあの当時、本当に嬉しかった。
寒い冬の日本海を釜山港から山口県仙崎港迄、一昼夜は掛ったであろうか、船の甲板はエンジンの温もりで割合温かいので三人団子になって上に布を被せ寒さを凌ぐ。便所は船の先端に囲いがあり、海に下ろす錨のある穴の中に用を足す。 大きな波が来るとザブンと波しぶきが上がって来るようなところだ。
何とか日本にたどり着く事は出来たが、父の思いはいかほどだっただろうか。小さな子供三人を抱え妻を亡くし全ての財産をも失ってしまったのだ。これからお世話になる先は、広島県大竹町(現在の大竹市)の父の兄に当たる叔父が家を継いでいた。船が着いた仙崎は山口県日本海側に位置し、現在は日本有数の観光地になっている。当時の朝鮮からの引揚船は全てこの港だったと聞く。
私達はそこから汽車で大竹に向かう。私は道中片時も母の遺骨を離さない様にしていた。夜だった各駅に停車するが、米軍の攻撃によって駅の建物はなくなっていて、何処の駅に着いたのか解らなくなっていた。 私はうとうとと居眠りして居た時、突然揺り起こされ、大竹駅に着いたと言うので下車するが、うっかり母の遺骨を座席に置き忘れてしまい、慌ててまだ止まって居た汽車に飛び乗って、遺骨を持ちいざ降りようとする間に汽車が動き始める、 近くに居た学生さんがホームに私を放り投げてくれた。
第三章
帰国後の生活
大竹市は昔の古い建物がまだ残っていて、大竹本家の叔父は先代からの財産を継いでいた、幸いあまり戦災にもあっていなかったが、何分にも当時は食糧難、皆配給でしか食べ物が手に入らない時代。そんな中で私達四人厄介になる。
とある日、親父が何か文句を付けたのだろう、わがままに育った父、何か食べ物にたいし塩味が足らないとか言ったのだと思う。一緒に食事していた叔父、膳に箸をピタリと置き「此の食料事情の悪い時何を言うか、文句あるなら出て行け」と父を叱り付けた。その事が元だったかは解らないが、遂に本家から追い出される。当時六歳だった私は父によく殴られもした。本家の叔父も明治の人間でとても厳しい人だった。
ある時、本家には大きな庭があり池には鯉が泳ぎ、私はそれまで現地の子供達と遊んでいて、日本の躾など受けておらず、イタズラ盛り、たまに布団にねしょんべんはするし、渡り廊下の縁側から池に小便をしていたら、叔父にこっぴどく叱られたこと覚えている。 こうして叔父の家を出ることになり、これからがいよいよ私の子供時代、貧乏のドン底の生活がはじまる。だがこうした中でも従兄弟と同じ様に分け隔てなく優しくしてくれた叔母がいたこと、せめてもの救いだった。
本家を追い出された父は山奥にバラックを建て(堀立て小屋)屋根は杉の木の皮を敷き詰めるが雨が降り始めると部屋の中はポタポタ雫が落ち寝る場所もない。便所は木で櫓を組み回りを囲って何とか凌いだ。床にはむしろを敷いて屋根の隙間から夜には星が見える、雨が降ればバケツや鍋をおいて座る場所もないそんな家に、父は二人目の母を迎えたのだ。三人の子を抱え妻を亡くし文無しになってしまった父にすれば致し方ない事だ。
私には新しい母を迎え嬉しかったが姉、兄には複雑な気持ちだったと思う。こんなところに大地主の家柄、当時としてはごく少ない女学校、短大出だと言う。また美人で畑仕事等したこともない箱入り娘と結婚出来て、親父としては自慢だったであろう。母を我が家にむかえるに当たり父から「庸夫一番小さいお前はお母さん待って居たんだよな、お母さんと呼びなさい」と言われていた。だが兄達にはお母さんとは言えず「おばさん」としか呼べなかったと聞かされていたことがある。
思えばよくもあんなバラックで筵をしいた便所も風呂も無いところへ、しかも三人もコブ付きのところに、大地主の家柄の娘がよくも嫁いできてくれたものだと不思議に思う。その母も初婚ではなかったようだ。そして迎えたその日は雨で、山の中の土道を女性用の立派な草履をはいて来た母。折角の花嫁衣裳が泥塗れになってしまい、父も兄達も居ない私だけしか居ないとき、母はシクシク泣きながら、綺麗な着物の泥跳ねを布で拭いていた。そういった苦労はあったけれども、子供心に楽しかった想い出もある。山に薪を拾い、川の清流で小魚を釣り、夕食のご馳走に喜ばれ、家族に病人があれば山中にわけいってキレイな湧き水を汲んで来て飲ませ、又ある時は風呂等と気の聞いた物はない、母と二人夜星空の下、近くに住む人とていない山の中の小川で、二人素っ裸になって行水したり、考えようによっては楽しい思い出もある。
父は相変わらず頑固オヤジ、母も相応に昔の女学校卒業とかでなかなか見識が高く、夫婦喧嘩は絶え間なく父の留守中里へ帰ってしまう。その都度まだ幼少の私には、ア~又しても母は居なくなってしまった、矢張り私には母に縁が無いのかと寂しい思いをしたものだった。そんな時父は必ず一番小さい私に「庸夫、お前、連れ戻しに行って来い」と、知り合いの人の自転車に乗せて貰い母の里へ向かわせるのだった。何時もそれが私の楽しみだった.と言うのも当時食料事情の悪かった我が家では、サツマイモはまだ良い方で麦飯とか芋づる、カボチャのツル、田んぼのイナゴ、ヨモギ、草類で食べれる物は何でも食べた。田んぼの畦道に居る、どん亀を捕まえ、グラグラ煮えたぎる中に入れ湯がいて甲羅を抜き取って肉を食べた。骨まで柔らかく美味しかった。
私が小学校に入る頃、兄、姉、三人で弁当を分け合って食べた。その弁当は鶏の餌に使う糠に野菜を混ぜて煮たものを弁当箱に詰めたものだった。今、此の文章を書きながらその頃の事を思い出すと涙、涙、涙である。当時は特別階級の者で無い限り、皆そうであったのでは無いだろうか。そういった中、母を迎えに里へ行けば母の弟の叔父が夜、幽霊の話をしてくれたりそれにも増して継母の母であるおばあちゃんが、私には特別配慮して下さり、他の子や孫達の居ないところで、籾殻のなかに入れて熟させた大きな柿「祇園坊」をコッソリ残しておいてくれた。
お正月には大家族になりモロブタ何段も重ねて餅をつく、白餅、アンコモチ、ヨモギ餅を作る。農家で大地主である母の里では白い米のご飯を食べさせてくれた。米のご飯を「銀飯」と言っていた「ウアー銀メシだ」感激だった、我が家では配給の米さえも買えない時代、母の里へ行けば、おばあちゃんが腹一杯食べさせてくれるのだった。そして母はまた泣き泣き我が家に帰って来てくれたものだ。こうしたドン底の生活の中にも、私の回りには暖かい手を差しのべてくれる人が必ず居た、そうしたことが今の私と言う人間をここまでに育ててくれたのだと思う。
その内父も漸く勤め口が見つかり、安定した生活になって行く。勤務先「農林省・統計調査事務所」は広島県各地に在り、その地方の農作物、植え付け面積、収穫量等を調べ政府に報告するのである。ところが此の役人の仕事も一ヶ所に長く勤めると贔屓にする者、賄賂を使って間違った情報提供する者が出てくる。その為か毎年のように移動、転勤させられる。その度に私は学校が変わり、又、新に友達を作らねばならない、何時も肩身のせまい思いをさせられた。広島県内大野町の山奥から久島、瀬戸内海の島々、大垣、能美島、竹原、よく転々とさせられたものだった。その都度、家賃の安い借家を探す。大きな家の割には家賃が安い、噂話を後で知るのだが、あの家は風呂場で首を括って死んだ人の家だったとか、今思えば笑い話だ。
その内父も出張所長となって、立派な官舎をあてがわれ生活にゆとりが出てきたけれども、私が中学に入った頃、将来の事を思ってか父はキッパリと農林省を止め、大竹市の叔父と仲直りができたのか、本家の庭続きの家が空いたのでそこに住むことになる。父の勤め先も学生時代の友人の経営する大学ノートやプラスチックの袋製造工場へ庶務課長として迎えられた。そうして私が中学卒業する頃、父からお前は此からどうするか、高校、大学と進みたいか、それとも何か手に職を身につけたいかと聞かれた事がある。その時私は父の背中を見て来て大学を出た父は戦争の為とは言え、結局はサラリーマンで一生を過ごす事になった。そうして私は手に職を身につけることを選び、広島南観音町の海沿いに三菱造船所があってその敷地内に職業補導所が出来、電気、機械、木工と三科目が有りその内の木工を選び、家具職人としての第一歩が始まる。我が人生に於いて此の後ブラジルへ単独移住して来て、後に木工職を身に附けていたことがどれだけ役にたってくれたことか、その時は知る由もない。
第四章
ブラジルへ
それとなく私の心の内の何処かに漠然とではあるが、いつかチャンスがあれば海外へ行ってみたいと言う夢が芽生えて居たような気がする。そして生まれ故郷の大竹市に帰り木工職人として、家具工場に勤めることになる。
当時はまだ戦後の復興がようやく始まったばかりの時代であった。私の給料袋の中身は一万円札一枚とちょっと、当時大学卒業の初任給が一万八百円と言う流行り歌迄あった時代の事、これではいくら定年まで頑張っても、木工職人では一生かかっても我が家を持てるなど夢のまた夢...... そうしたある日、父からブラジル行きの話が持ち上がっていた。一家での移住を計画していたのだが、ブラジル側の受け入れ先に何らかのトラブルが生じ断念せざるをえなくなる。
ヨシ、ならば俺一人で行ってやろうではないか》と言う事から、ブラジル側、当時芸備協会斡旋による同じ広島県出身の農場に呼び寄せ願うべき、県庁を通じ手続き開始する。今にして思う事だが、本当にブラジルに来たかったのは東京農大を出たその巧みを生かせる父ではなかったか......と。数々の手続きのあと、神戸移住斡旋所へ。そこで知り合ったのだが、私と同じような希望を持った単独青年が十一名いた事が分かった。以後、船中はもとよりブラジルに着く迄深い絆が結ばれた。 西日本出身の移住者、九州を含め神戸港から、東日本、北海道出身者は横浜港から乗船だった。
時は一九五九年十一月二十八日、移民を乗せた貨物船〝アフリカ丸〟は総排水量一万二千トン。いよいよブラスバンドの〝蛍の光〟の曲が流れ、陸上の身内と移民を乗せた船上の我々とを繋いでいたテープがプツリと切れた、とその瞬間、『アッ、しまった......俺はなんと大それた事をしてしまったのだろうか......もう二度とこの地を踏むことはないであろう......』それ迄は海外雄飛なんだとはしゃいでいたけれど、もうここからは自分一人だ、誰も助けてくれる人はいない、心細くどうしようもない哀しみにくれる。
デッキにすがり何時までも夕日の沈む頃まで立ちすくんでいた......、フッと気がつくと回りには自分だけではなく、同じように涙をぬぐいながら立ちすくんでいる人がままあった。もうこうなったからには諦めるしない...、いざどうにもならなくなったらジャングルにでも潜り込んでバナナでも食って生き延びるしかないと覚悟を決める、このような思いに駈られた人は私だけではなかったであろう......。
船が横浜港を出るときは神戸を出る時の感傷はもうなかった。約五百五十名の移民を乗せて太平洋のベーリング海に差し掛かった頃、嵐に遭い五〇メートルを越す荒波のなかを潜りながらつき進む......。
船は絶えずエレベーター五階迄キリキリと上ったと思えばまた下がる、止まる事はない......。殆どの者は船酔いでゲーゲー...、食事どころではない。おかげで我々若い者は船酔いも殆どなく、食事出来ない人のオカズ、毎日鰯の煮物ではあったけれど、二人前三人前も頂いた。
ロサンゼルスを経てパナマ運河を通過する頃になると、真夏の太陽が照りつける。日本を出る時は真冬だったのが、今赤道直下、そして全ての船が赤道通過の時必ず行われる『赤道祭』航海の安全を願っての儀式だ。乗船者のなか芸達者がそれぞれに思い思いの服装で参加する、我々十一名の神戸乗船組単独青年は、ハワイからの特別船客である女性にかねてからフラダンスのレッスンを受け、腰をふる練習を重ねてきた。男ばかり十一人、頭にレンソをかむり、口紅や顔には化粧を施し、オッパイはお椀を付けて腰には部屋を仕切っているカーテンを巻き付けて......ハワイのフラダンスを踊る。大喝采を受ける。一九六〇年一月サントス着のアフリカ丸同船者なら皆覚えておいでだと思います。
あれからもう六十二年の歳月が流れました。当時二十歳になったばかりの青年が、今は八十二歳の老いぼれと化しましたが、当時の事が走馬灯のように浮かんできます。メキシコ、パナマ運河を渡り太平洋から大西洋へ島々を巡り、ベネズエラそしてブラジル国最初寄港地レシーフェ、ここでベレン方面に行く移住者下船、荷下ろしの為二~三日停泊すると言うので、神戸単独青年同士申し合わせて町見物に下船する。
何時もの事ながら上陸許される港に着くたびごとに船内アナウンスある。下船する単独青年は医務室に来る様にと告げられる。どうしてかと友人に聴くとまあ良いからついてこいと言う。私は今まで気に止めて居なかったが、医務室に行くとなんとそこで渡された物は「衛生サック」俗語「カミジンニャ」だった。特に我々のような単身者は港に降りると、港みなとに女有り、必ず遊郭がある、どんな病気をうつされるかわからないと言う訳で前もって希望者に予防の為にと衛生具を渡される。私にとっては初めてのこと、神戸乗船仲間五~六名で上陸。彼ら皆二十四~二十五歳、みな女への接し方も知り尽くしたベテランである。夜更けて港の近くの公園のベンチを陣取り、鶏の丸焼きを買ってきて皆でむさぼっていた。サントスに着けばどの様な運命が待ち受けている事やら、不安を抱えながら気の緩みもあり、男の本能が揺さぶりをかける。「おいー一緒に行こうか」と、言う事になり、折角頂いた袋も使って見たくもありもうこうなったら一か八か......親しい友人と二組で行くことにする。
ブラジル語がまだ出来ない、腕時計の針を一時間回し、ちょっと習った言葉を使い 「クワント、クスタ」一時間いくらかと聞いて交渉成立、私に当たった女性は色は黒くはなかったが小太りでかなり年増であったけれど、より好みする余裕もなく、連れ込み宿のような所に連れて行かれた。ここで私は童貞を失った......。 天にも昇る気分で船に帰ってからも当分はウキウキした気分、この世のなかにこんな素晴らしい事があるとは知らなかった、これは簡単な事では死ねないぞと勇気が湧いてくる。赤道祭で女王になったマドンナからも「小池さん、随分嬉しそうね、何か良い事があった?」と、声をかけられて赤面したものだ。
さて、いよいよ不安と夢と希望を乗せて四十五日間の航海を終えサントス港に着岸.時は一九六〇年一月十八日、真夏の太陽が照りつけるサントスであった。
第5章
ブラジルでの第一歩
人の一生には幾度か大きな節目があり、その時の行動、決断によって人生が形作られて行くのではないだろうか、戦前の移民の多くは、ブラジルで一旗挙げふるさとへ錦を飾ることを目標に生きて来た者が多く、戦後の我々の時代は、戦争に負けた日本は貧乏だったそういった事から殆どの戦後移民は、もう日本に帰ると言う望みはなく、サントスに降り立った時点からブラジルを墳墓の地と定めている。この様にスタートの時点から目的が違って来る。初期移民の苦労にくらぶれば、確かに戦後来た我々には既に信用という土台が組まれてあっただけに、真面目に働けばそれだけの成果は認められたと言うべきであろうか。
さて、港には私の受け入れ先のパトロンが迎えに来て下さる事になっている。下船の順番を待っていた。桟橋には大勢の出迎えの人がいて、その中に十歳前後の女の子二人、多分姉妹であろうか、真白いワンピースを着ていて、その頃は暑い盛りで現地の日本人もみな日焼けして、黒人と変わらないように見えた。その二人の女の子の顔は日本人だが、白い服と対照的に尚更顔が黒く見え、きっとこの子達のお母さんは黒人かな......と思いながら眺めていた。船上の我々から見れば、現地にいる日本人が皆黒く見える反面、現地の人から見れば船上の我々は色白の青二才に見えたであろう。あとになって聞かされた事だが、あの時パトロンからすれば、こんな色白の青二才が、ブラジルの農業をやって行けるのだろうか......心配だったとのこと。その内、「小池さん、お迎えが来ておられますよ」 と、呼ばれ行って見ると、先ほどの色の黒い女の子二人がそこに居るではないか、父親と一緒に迎えに来て居たのだった。
税関検査も早々に終わり、携帯荷物と言っても当面の服の入ったトランク一個と大工道具一式の入った道具箱だけだ。シボレーのトラックで来てくれていたが、それ程の荷物はない、帰る途中サンパウロに寄って肥料を積んで行った。私がこれからお世話になる所は、カッポン・ボニートという田舎町、サンパウロから南にラポーゾ・タバーレス街道二三〇キロ行った所だ。当時はまだサンパウロを出ると舗装されて居ない土道だった。
夕刻まだ明るいうちに山下農場に着いた。その時、ちょうど雨が降っていて、広い住居の回りには、放牧している牛の糞が所々にある。水溜まりのあちこちもフンまみれだった。山下家には同行した二人姉妹のほかに六~七歳くらいの男の子が二人いて、私達の到着を喜び雨の中を裸足でペチャクチャ言いながら、雨水と牛の糞の混ざった中を走り回っている。その光景を見て、これはまたひどい所に来てしまったなと驚きもし、その反面何となく安心した心温まる光景でもあった。
そうした心優しい一家に迎え入れて頂いたことは言うまでもない喜びと安心感があった!。やがてこの子達が大学に通う頃になると、皆サンパウロに出てきて家族を持ち、六十数年経た現在に至るまで、変わらぬ親交が続いている。 私がこの農場に来る前、もう一人熊本県出身のコチア青年 (コチア産業組合斡旋)がいて彼は私より四歳年上、農家の出とあって経験も豊かで、以後生活を共にして大変お世話になった。その頃まだ農場内に電気はなく、夜はランパリーナといって、石油ランプで明かりを灯し、風呂も炊事も薪で炊いていた。やがてトバタの発電機を買って、夜は薄暗い電灯が灯るようになった。
山下農場の主作物はバタタ (馬鈴薯) 作りだ。これは当時の農業者に取って大バクチのようなものだった。失敗すれば大きな借金を抱えることになる。年二回の収穫期があり、毎回同じ土地に植えると、病気や土地が痩せて収穫が悪く採算が合わなくなるということから毎回新しい土地を開墾しなければならない、なんといってもこの土地作りは大変な作業であった。私が働き始めた頃、一度に一〇アルケールの土地を開墾(一アルケール=二万四〇〇〇㎡)した。起伏のある肥えた土地を選び、広大な土地の中には大木も数本ある。この木を倒すにはまず根本の回りを掘り起こし、張っている根本を切り離しておき、そして幹の枝に太い鎖をかけ大型トラクターで引き倒す。枝を払って当時はまだ電気鋸などと言った気の利いた道具はなく、大木をトラックに乗せれる長さに切るのは、トランサデイラといって、大きな鋸で二人がかりで引き合いながら挽くのである。そして張りめぐっている地下の根を全て掘り起こして、山にして火をつけるが、生の木の根はなかなか燃えない。燃え残りの木をまた山にしては火を点け、きれいに焼却するまで焼く。そのあと大型トラクターでアラードをかけ、地面を掘り起こし整地してゆく。毎日帰路に着く頃には空には星が煌めいている。疲れ果て鏡に写っている真っ黒になった我が顔を見て、母がこの顔を見たら決してブラジルへは行かせなかっただろう......と涙する日もあった。
バタタを植え付け多くの肥料を蒔き、病虫害にあわないよう消毒もし、何日も雨が降らないときは谷底から水を配管し、ポンプで水を撒く。そういった莫大な資材と労力をかけ、天気に恵まれ初めて豊作に恵まれる。そうして収穫、まだ農作業に慣れない力も無い私には、六〇キロのバタタの袋を持ち上げ頭に乗せるには一苦労だった。ヒョロヒョロしながら、漸くトラックの荷台のうえに支えあげるが、上の者が早くつかみ上げてくれなければ、力尽 きて地面に落とすことがある。カマラーダ連中(ブラジル人労働者)にチッと舌打ちされ「弱い」といって冷やかしの声がかかる。「チクショー」腹が立つやら情けないやら、こんな奴らに負けてたまるかと歯をくいしばってやるしかない。その内要領がつかめるようになって、ただ力だけでは無いことに気付くと、自然に頭に乗せトラックの上にひょいと投げ込めることが出きるようになった。
収穫したバタタはその日の内にトラックに積んで家の倉庫まで運ばねばならない。積み終えた頃、雨が降り始めると急がねば厄介なことになる、家まで土道で坂が多い。両側は深い溝がありタイヤに滑り止めの鎖を付けるが、登り下り右左に滑りながら......ついには溝にはまってしまう(ブラジル語、エンカイヤ)。カマラーダと一緒に皆で荷台を押すが、びくともしない。タイヤのスリップの飛沫がかかり泥まみれだ。鍬でタイヤが乾いた土に届くまで掘り下げ、クッピン(蟻塚)を壊し硬い土を敷き詰め、押し上げ何とか土道に戻した時、我々は溝の泥の中に倒れこんで、幾度泣き崩れた事か......
そうして漸く家に辿りついたとき、パトロンの奥さんが泥だらけの私達の姿を見て「さあさ、パトロンより先にお風呂に入って」 と、いって下さる、こうしたちょっとした心遣い、今でも思い出すと涙する。人はこうした温かい思いやりの心に接した時、どんなに疲れていてもどんなに辛いことがあっても。真心が伝わり癒されるものだ。 運び込まれたトラック一台分のバタタは、エストラ、エスぺシアルと選別機にかけ、一袋五〇キロずつ秤にかける。トラック一台分一五〇袋、その夜のうちにサンパウロ市場にもって行くのである。その日の入荷量によって価格が決まる。大変な労力、資金、資材を投じて豊作にめぐまれ他方からの出荷量が少ないときに恵まれると始めて儲かる大バクチである。いくら真面目に働いたからといっても一つ間違えば大借金を抱えることになる、これがバタタ作りだ。
だが、こうした辛いことばかりではない。週末は子供達も畑に来て手伝ってくれることもあり、そう言った時は必ず町の会館にシネマ (映画)がくる日だ。パトロンの子供達が近くに寄って来てソッと、「小池さん、今晩、シネマが来るよ、一緒に行こうね」と、知らせてくれる。当時サンパウロ市からシネマ屋さんが田舎町を回って、日本人会館等で日本映画を見せてくれていた。白黒ではあるが「君の名は」「愛染かつら」等、田舎町での数少ない楽しみの一つだった。 厳しい農作業の合間には、私の特技とする指物大工の技を発揮、農場のポルトン(農場入り口の門)を修理したり、家具を修繕したりして大変喜ばれた。
こうしてお互い愛情のこもったパトロン家族に支えられ、辛いことも耐えてこれたのだったが、ついに私の身辺に不幸な事件が発生する。
第六章
サンパウロへ
そう、あれはバタタの収穫も終わり掘った後の土地に、トーモロコシ等植えるべく雑草やつる草が耕耘機に絡まないように。土地のごみ集めをしていた。大した仕事ではないのでそういう時パトロンは町へ買い物や農機具の修理のため出かける。畑は私と同僚のコチア青年と二人で支配人の役目を果たすべく、カマラーダ(現地人日雇い人夫)に指示を与える。昼食も終わって、さて作業を始めようと木陰で休んでいるカマラーダ連中に声をかける。「バモ コメッサー」、しかし誰も出てこない。農業経験のない者の言うこと等聞く筈もない。私としては責任上、パトロンの言い付けられた仕事だけは片付けておきたい。
「バモコメッサーバモバモ」 と少し声を荒げて怒鳴る。すると年若のカマラーダの一人が声をあらげたことに腹を立て、自分の帽子を地面に叩きつけ其れを蹴飛ばし、凄い剣幕で持っている鍬 (熊手) を振り上げ私に襲いかかってきた。こちらもこうなった以上日本男児、後に引けぬ。大和魂ではないが剣道の技でもって応戦、遂に相手はこれは叶わぬと見たか、持っていた鍬を私に投げつけて逃げ始める。ここでやめて置けば良かったのだけれど、私は持っていた鍬をひっくり返しに持ち替え追いかける。若造は土のかたまりに躓いてひっくり返る、私は持っていたガンショで怪我しない程度に二~三回どやしつけてやった。所が後ろから恐る恐る私の襟首をガンショで引っ掛けて引くものがいる。いつの間にか仲間が近寄って来ていたことに気付かず......私に危害を加えず事なきを得るが、その内コチア青年が駆け付けてきてくれて、その場は収まったのであるが......。 あの時、後ろから来ていたカマラーダに一撃食らっていたなら、今頃私はこの世には居なかったであろうか、後で考えるとゾッとする。
その夜、若造の家族三名を止めさせるか、それとも私を止めさせるか......その中にトラックターを使う兄貴がいて、それはパトロンにとっては大事な存在だった。あのジャポネースを止めさせなければ自分達は出て行くと言う......一応パトロンは何とか取り成してくれたようだったが「一生懸命やってくれるのは有難いことだが、相手に怪我させるようなことは二度としないように」 と、そして「大事な事はお前が支配人として何人使いこなせるかであって、お前が一人いくら頑張ったところで二~三人分が精一杯であろう。自分の代わりに何名の人を使いこなせるかが支配人としての才覚だ」と言われる。
しかし、今自分のおかれている立場として再びこの様な事が生じた場合、何としてでも力でネジ伏せるしか道はないと心で思っていた。 以後、たまに町に出かける道すがらにバール(カマラーダたちの集まる一杯飲み屋)があり、私とひと悶着起こしたその若造がいて私を睨み付けて、手にナイフをちらつかせいつかやってやるぞと、目と目がかち合う事がしばしばだった。そうした事もあってラジルへ農業移住を決意した時、父から分厚い大学ノートを貰いそれに毎日作業日誌を付けるようにと......三年間分、石の上にも三年の諺の通りいくら経験のない仕事であっても、毎日欠かさず綴じた同じページに、その年あったことを書き込んでいれば必ず身につく時が来るからと思い、作業日誌を続けては居たものの、諸々の事を含めて行きつまってしまい、心身共に疲れ果てていた。
ブラジルへ来てまだ休暇も取っていない一年と八ヵ月過ぎた頃だった。少し骨休めにと一週間の休暇を願い、サンパウロへ行かせてもらう事にした。 あの頃の田舎で働く新来青年の憧れでもあった許し
を得て、皆が畑に出ていったあとゆっくりパトロンの奥さんと朝のカフェーを飲んでいたその時のこと
「小池さん、あなたにこんな事言ってはと思うけど、もしサンパウロへ行ったならあなたのような家具職人の腕がある者なら、ここで百姓をしているよりかどれほどあなたの将来に役立つ事があるか、折角だからそういったことを考えて見てはどうか」 と。そして更に「あなたを見ていて可哀想で仕方がない。ここを出て行かれては家族としてはとても切ない事だが、あなたの将来を思えばこんな所に埋もれてしまっては心もと無い」とまるで母親であるかのように諭される。この時思いは決まった。それまで休養のためと思っていた。日頃の心の奥のモヤモヤが吹き飛んだようだった。「俺は何の為にブラジルへやって来たのか」
大都会 サンパウロへ
そうして大きな転換期を迎えることになった。当時田舎からサンパウロへと言えばまずシネ・ニテロイ(映画館)があったガルボン・ブエノ街だった。日系人が多く宿泊所(ペンソン)を探す。右も左もわからない、ブラジル語もまだ充分に話せないが、ここに来れば日本語だけで通用する。今回、サンパウロに来た目的は先ず職探しだ。現在の状況から抜け出すには何が何でも良い条件の木工所を見つけること、田舎から持ってきた小遣いもそんなにあるわけでもない。遊ぶのはその次だ。
丁度ペンソンにあった日語新聞を見ていた所、広告に「プレシーザ・デ・マルセネイロ」(家具職人
求む)と言う広告があった。早速その住所を探して行ってみると、約三百人の女工さんばかり働く大きな縫製工場「ローパス・レジェンシア」と言う社名の男性用高級服を縫う会社の木工部所で職人を募集していたのだった。いよいよ面接を受けるが、日本人は居ない。全部ポルトガル語で受け答えしなければならない。何とか身振り手振りで納得してもらいテストとして、ここにある道具、材料、機械を使って一週間の間に図面通りの机を作って見ろと言う。作ることは簡単だけれど、苦労したのはノコギリも鉋も日本では引いて切ったり、削っていたのだが、こちらでの道具は反対で押して切ったり削ったりするようになっている。それでも何とか使いこなし、一週間の約束が三日で出来上がる。
よし明日から来ても良いと採用が決まる。月給十五コントス払うと言う。その頃の最低給料は四コントスの時代だ。天にも昇る気持ちだ。三日間の猶予をもらい、残りの三日の間にサンパウロに住まいを探さなければならない。骨休めのつもりできたのだがそれどこではない、当時、ガルボン・ブエノ街付近には多くペンソンはあったが、一部屋に二段ベットで五~六名同室、私のように田舎者が出てきて、職にあぶれてブラブラしている単独青年の集まる場所だった。そういった場所に住みたくは無い。仕事場が決まった「ローパス・レジェンシア」のあるカシンギー地区を探すことにした。この界隈は割合多くの日系人が住んでいて、まず日本人と出会えば、「この辺りにペンソンはないか」と聞いてみる。「そんな所はないが近くに日語学校があり、地方から出てきた子供たちを預かっている所がある」と言う。早速相談に行ってみる。
応待して下さったのは校長先生の奥様で、教師であり、学校経営者の奥様であることが分かった。これまでの事情を話し、どうか私一人宿泊できる部屋を都合していただけないかとお願いする。当時新来青年と言うと評判が悪く、リベルダーデ界隈で二世集団と日本から来た新来青年との間でよく事件を起こしていた。応対してくださった奥様から、今主人が留守なので夕刻には帰って来ると思うので、それまで部屋で待たせてもらう事になった。
夕刻になっても帰って来ない、仕方なく奥の部屋で休んでいなさい、帰って来たら起こしてあげるからと言う事になり休ませてもらう。夜中になってやっと戻られた様子で、「何、新来青年?そんなわけのわからない人間をうちで預かる訳には行かん、直ぐに起こして帰ってもらえ」と、奥さんと主人とのやり取りの声が聞こえる。「もう夜中だから明日ゆっくり話しを聞いてあげなさい。見たところそんなに悪い人でもなさそうだから」と言うことで、私はそのまま休ませて頂く。
夜が明けて時を見計らってご主人と対面(橋詰先生)。新来青年は信用出来ないし、ここはペンソンでも宿泊所でもない、今すぐ帰ってくれといきなりの返事だった、 私は今までの経緯を説明、近くの「ローパス・レジェンシア」の木工部に勤めることになったことを告げる。当時、カシンギー区では最も立派な会社だった。 何とか橋詰氏を説き伏せ、日本語学校の生徒と一緒に住むことになった。地方から出てきた子供たちは充分に月謝が払え無い家庭の子供を預かる、食事代の代わりに農家で取れた野菜など月謝がの代わりに受け取っていた。
食事も贅沢はできない。白飯とフェイジョン、サラダだけでも良いかと言うことで、宿賃と食事代は私だけ月四コントス払うことで納得して貰う。後で知った事だが、あの難しい橋詰先生をよくも説き伏せたものだとみな感心していた。人は必ず誠心誠意、心を込めて話せば通じるものだ、と言うことを知る。そして一週間、一日として遊ぶ事なく喜び勇んで、カッポン・ボニートの山下農場に戻りパトロンに、これ迄あった事、すべての事情を話し許しを乞う。
第七章
運命的出会いの始まり
既に事のいきさつは奥様と相談なされていたことであろうか......「君がサンパウロへ移ると言うことについては致し方ないが、君を呼び寄せるに当たり費用はかかっている事だし、僅か二年足らずで去って行くことに対し一切の援助は出来ない、ただ日本の親に対し申し訳立たない様なことだけはしてくれるな、そしてもしどうにもならなくなったら何時でも帰って来い、ここがお前の故郷だと思って......」 と暖かい言葉を掛けて下さり快く送り出して頂く。「立つ鳥跡を濁さず」皆が畑に出た後、日頃出来なかった住居の周りの草刈(カルピ)して身の回りの物をまとめサンパウロへ......。
予め決めてあったカシンギー区の橋詰日本学校の約十名の寄宿舎の子供達との生活が始まる。全く質素なもので夕食とてフェイジョンとご飯、簡単なサラダだけ......。それでも私には当時としては有難いこと、職場迄徒歩で五分、一銭の小遣いも使うことなく通う事ができた。職場の木工部には私ともう一人ウラジミールと言う左利きのロシア人が居た。工場内部に戸棚を作ったり直したりした。私にはいつも女工さん達の椅子を直したり、修理ミシンの台引き出しを直したりとつまらない仕事ばかりやらされる。 時たま、土曜日、日曜日には工場長宅の家具修善に駆り出される時もあり、初老の夫婦だけだが立派な高級住宅だ。昼食迄よばれて喜ばれた。この工場で働くようになって全く日本語が通用しないので、いや応なしでブラジル語を覚える。
そうしたある日従業員出勤時間を印すタイムカードの機械が導入され、打ち方が分かず困っていたところに、一人の日系女性工員が話かけてきて、「ニーチャン、今ここで給料いくら貰っているの」と聞かれ正直に十五コントスだと言うと「自分の父は木工所をやっている、同じ日系同士だから二十コントスは払うよ、よかったら来てみないか」と言われ、ここに来てまだ半年も経っていない、安定した収入は得ていたが、俺はこんなことをするためにサンパウロに来たのだろうかと将来独立して何かをやろうとする時、こんなことに甘んじていては......少しばかり欲が出てきてそれとチョッピリ彼女の微笑みに心引かれるところもあり、よしこの次彼女に会ったら木工所を紹介してくれと頼んでみようと決心。その木工所はピニェイロス区のテオドロ・サンパイオ街の一角にあった。
彼女の父に面接、「即刻来ても良い、月給二十コントス払う」という。しかも住居もパトロンの住宅裏手に住み込みようの部屋があり、食事の世話も家族と一緒に奥様が世話して下さる、月四コントス払えば良いと言って下さり、全く願ったりかなったりだ。さて問題はローパス・レジェンシアを辞めることを工場長に申し出ると、「どうして辞めるのか、給料の問題なら値上げしてやっても良いから辞めるな」という。又しても我が将来のためにもっといろんな事を身に付けたいからと惜しまれつつ何とか理解して貰う。問題はもう一つ、無理を言って住まいを世話して下さった橋詰氏だ。まだ一年にもならない内に仕事を変えるとは何事だ、ここでも給料の問題なら息子にエンジニア(建築技師)がいるから世話してやっても良いとまで言われてちょっと迷いはしたが、もう決めてあることなので何とか納得して貰う。そしてここでも困って行くところがなかったら帰って来いと......そして成功したなら帰って来なくても良いとまで言って下さった。
人間にはどこか心の奥底に欲があり限りがない、ある一つの目的が達成するとまた次の目標に向かってもっともっとと......。 田舎で農作業しながら颯爽と車が行く姿を見てヨシ俺だって結婚する迄にはどんな小さな家でも良い家賃を払わなくてよい家を持ち、 心の優しい女性と結婚しどんなボロ車でも良い、自家用車を持つ......のだと心に描いていた。 朝の出勤は工場主(パトロン)の自家用車に同乗させて貰って、このように優遇されるには一つ理由があった。この家族には年頃の二十歳前後の娘が三人いて十五、六歳の放蕩息子が一人居た。私に話かけてくれた娘が長女のレジーナ、次女マリア、三女エレーナ。エレーナもローパス・レジェンシアの女工だった。問題は次女マリアだ。木工所のジェレンテ、殆どの采配はこのマリアが握っていた。従業員は職人四名、見習いの若いブラジル人一人、それと塗装専門に日本人の老人がいた。主人の住宅裏手に二部屋あって、一つを私、別の部屋はこのお祖父さんと以後同居することになる。
先ず仕事始めとして部屋に取り付ける洋服ダンス( アルマーリョ・エンブチード)の図面を渡され、これを作ってみよと言われた。日本での洋服ダンス作る要領でキチンと扉を取り付け、引き出しも一分の隙も無いように仕上げる。ところが制作中誰も声をかけてくれない、皆日本からの職人のお手並み拝見とでも言ったところか......数十日後、いよいよアパルタメントに取り付ける段になって漸く気付くのであったが、こちらの住宅は(アパルタメント) 大きなものを入れる戸口はなく、皆解体して現場に行って組み立てるように作らねばならない。大きな洋服ダンスをきっちり糊付けして組み立てているので、アパルタメントのエレベーターには入らない。折角細やかに仕上げたのであるが、鋸で切り手間をかけ台無しだ。
そうした苦い経験を積みながらも他の職人に引けを取らないように技を磨いて行く。小さな木工所ではあったが、ジェレンテ・マリアの若さと女性の本領を武器に、商店改装の仕事を請け負って来る。週末も休めないほどの繁盛だった。所が肝心のパトロンは殆ど木工所に居らず、午後になると必ず競馬 (ジョッキー) に入り浸り、庸夫、後を頼んだぞといって帰ってしまう。マリアと工場を閉めピニェイロス広場迄近くのタクシー・ポント迄歩く。通りを二人出歩いていると当然知り合いと出会う。その都度聞かれる〝ケン・エ・エレ〟(その人誰?)マリア言わく〝エッセ・エ・エンプレガード・デ・メウパイ〟(父の工場の従業員)だと。冗談にでも彼は私の「ナモラード」(恋人だ)とでも言ってくれるなら、満更でもなかったのだが、所詮はその程度の扱いでしかなかった。
ある日、社長宅の誰かの誕生日会が開かれ私も呼ばれる。その内ダンスパーティーが始まる。隅っこの方に座って居た私はそれまでダンス等踊ったこともない、ステップも知らない。みな楽しそうに騒いでいたそんな時フトどちらともなく目と目が合ったというか、誘われ長女レジーナと踊る事になった。ステップも知らない私はただ音楽にあわせて足踏みしているだけなのに不思議と彼女と意気投合、ピッタリ体も頬も寄り添って暫しの間ウットリと「ベッサメ ベッサメムーチョ」こんな思いに慕ったことは生まれて始めてだった。その後どの女性と踊ってもそんな感情に浸る事はなく、それどころか足先が当たったり、踏つけられたり早く音楽が終わらないかと思うほどだ。
人生なかなか思うようには行かないもので、レジーナは私より年上でしかも既に婚約者が決まっていたのであった。もしあの時、婚約解消して私と一緒になってくれと言えたなら、また我が人生もどう変わっていたことやら。数日後彼女は婚約者の元へ嫁いで行ってしまった。ジェレンテ・マリアは次々と大きな仕事を請け負って来る。人手が不足して新しく日系二世の青年を雇い入れる。仲間が増えその事には依存はなかったのだが、後でわかった事で先に入社した私の方が先輩、技能についても決してひけを取ってはいないはず。主従の信頼も築かれていたはずなのに、新しく入った彼の方が給料が多く払われていた。その事がわかって私は方針を変える。
土、日曜の休みの日は一切工場の仕事を打ちきり、将来の為自分のために働く事にする。テオドロ・サンパイオ街の両側の商店を一軒一軒道具箱提げて何か仕事はないか、ご用聞きして廻る。するとあるはあるは、「ここに棚を作ってくれ」とか、「扉を反対側に開く様にしてほしい」とか、この頃にはポルトガル語も少しはコミュニケーションが出来るようになっていた。 そうした土、日曜日だけの稼ぎが、何時しか木工所のひと月分の給金に匹敵するくらいになって行った。当然木工所としては面白くない振る舞いではある。将来独立して何かをやる足掛かりとしてしっかり稼いで置かなければならないのだ。
そんなある日近くにテントを張ってサーカス団 (シルコ)が来る。マリアが突然シルコ見に行こうと私を誘うポップコーン(ピッポーカ)を買ってまるで恋人気分、有頂天になっている私に「パパイ(トーチャン)も私も貴方を信頼しているのだから、しっかり木工所を守ってほしい」と喜ばしい言葉についホロリ、給料も上げるから木工所の仕事に力を注いでほしいと。仕方なく時間外の仕事を打ち切り木工所の仕事に専念する。
第八章
漆器工場を始める
言語も習慣も異なる異国へ裸一貫で飛び込んで行った一人の若者が、偶然とも言える運命的出逢いによってまた新たな人生が切り開かれて行く。思えばその頃のピニェイロス街の道路はまだ石畳の道が残っていた。コチア産業組合があり、馬車で荷物を運ぶのを見かける時代であり、商店も工場も活気に溢れていた。何の事業を開業してもやって行ける好景気の時代でもあった (一九六三年)。
そうしたある日の事、イピランガ区目抜通りの一角で、木工所の出仕事・ユダヤ人経営者の洋品店の改装を引き受け、表に面した陳列棚を作っていた。 ペンキの缶を持った一人の男性が通りかかってピタリ足を止めて私を見て、「あなた小池さんでは......」と声かけてきたのでヒョット見たその顔は、何と移民船アフリカ丸の同船者北村慧光さんだった。 オー声もなく二人は抱き合って再会を喜び会った。
神戸港を出て太平洋横断中、アフリカ丸船上ですることもなく船内を散策中ふと出会った。どちらともなく声をかけ、まず尋ねる言葉は「どちらの出身県ですか......」だった。その時偶然出会ったのが広島県出身北村ご夫妻だった。広島県からこの船に乗り合わせた者は、私とこの北村さんご夫妻だけだったのであった。そういった事から尚一層親しみはあったけれども話し会ったのはそれっきり。船室も違い、五百数十名のなか、特に会う機会もなく下船して税関検査のどさくさの中、お互いの健闘を祈り別れたのが最後だった。
あれから三年、ばったり出会ったのである。その頃ピニェイロスからイピランガは、市内の西と南の端と端であり、バスを何度も乗り継いで行かねば会えない所だったが、お互い心の許し合える間柄となり、休みの日には必ず北村さん宅を訪ねるようになって行った。
北村さんご夫妻は小さな家内工業として漆器製品を製作していて、その頃漆器は輸入品でしかなく、国内では珍しい貴重品だった。そうした中、お互いの親交は益々深まって行ったのであった。休日にはいつも北村さんの漆器製品作りのお手伝いをし、奥様手作りの昼食をよばれ、時にはご夫妻と映画みに連れて行って貰ったり、お互いの親交はますます深まって行ったのであった。まだその頃はヴィラ・ソニアのパトロンの家からピニェイロスの木工所に働いていた。そんなある日の事、北村さんから「君この仕事やってみる気はないか、実は私達は日本へ引き上げ帰ろうかと思っている、ついてはこの漆器工場を整理しなければならない、君にやる気があるなら全てを君に譲っても良い」と言われ、後で出来ただけ機械等の代金を送金してくれれば良いと言われた。北村さんは日本で禅宗の僧侶だった。その頃親しくされていた日本での師が亡くなられ、その後のお寺を継ぐことになり、もう一つの理由は広島に原爆が投下された時に、ある友人を訪ねた時、放射線を浴びており療養の為もあり日本へ帰るつもりであること打ち明けられる。直ぐには返答もできず迷った。
思えばまたとない独立のチャンスではないか......帰国予定一ヶ月前と押し迫っていたが「君が本気でやるつもりなら、これから一週間住宅兼工場に寝泊まりして指導して上げよう、そして全てあなたに託す」と言われる。ここまで来た以上やるしかない。木工所の仕事にはご無礼して、一週間の特訓を受ける事と相成った。当時ブラジルには漆はなくカシュー漆といって日本から輸入されていた化学塗料をエアー・コンプレッサーで吹き付け、スプレーで塗っていた。光沢も良く堅牢な塗料である。
お盆、宝石箱、各種装飾品として扱われていた。いままで経験したことのない仕事、工場の机の上に寝起きして悪戦苦闘の一週間であった。移住してきて三年そこそこ、まだポ語もろくに話せない経営迄は私一人では手が届かない。そこで共同経営者を探すことになり、北村さんの知人を当たっては見るが矢張その頃日本からの新来青年は評判は悪く、なかなか誰も信用してくれない。ふと思い付いた、以前北村さんが資金繰りに困ってカメラを抵当に、お金を貸して貰ったりした事のある写真舘があった事を思い出し、確かあの方は広島県出身だと言っていた、最後の望みをかけて行ってみることになった。
そしてこれが私にとって第二番目の運命的出逢いになろうとは...この写真館経営者西村一家との出逢いが私の未来を大きく羽ばたかせてくれる事になろうとは...…。 自己紹介のあと出身県を尋ねたところ、何と言うことか私と同じ広島県大竹市(当時はまだ大竹町)だとのこと、そればかりか私の産まれた本家小池の家を知っていると、しかも写真館経営者西村暢夫さんは日本生まれ、小学生のころ私の従姉と同級生だったと言う不思議なご縁の結び付きによって以後西村一家の一員として迎えてくださったことは言うまでもなく、 共同経営者として漆器工場譲り受けの為の資金援助も引き受けて下さる事になった。
こうしてめでたく北村ご夫妻は全てを私に託し、日本へ帰って行かれた。まだ若いご夫妻には子供はいなかった、と言うよりつくらなかった (原爆症のため)。 こうした事情もあっていままで勤めていた木工所の仕事をやめざるをえなかった。いくら事情を説明しても遂に理解を得られず、木工所を去るに当りひと悶着があり、遂には警察沙汰にまでなってしまった。 我が人生に汚点を残して仕舞ったのである。一時期恩に接していながら、喧嘩別れになり慚愧に堪えない。信頼すると言うことは大切なことではあったが、利害のからんだ信頼はときがくれば壊れてしまう。最初に経験したカッポン・ボニートでの農業経験は、以後サンパウロへ出てきて如何なる苦難にあってもあの時の苦労に比べれば......という尊い教訓を与えてくれた。そして私が山下農場を去った後、その子供達は大学に進む頃は、皆サンパウロに出てきてからは私との交流は続き、現在に至るまで子供、孫の代まで兄妹弟の縁は続いている。
さて、漆器工場とは言っても名ばかりの二階建ての小さな長屋、共同経営者西村さんは写真館があり
工場にはほとんど来ることはなく、工場の全ては私にお任せ、従業員といっても十五~六歳の日系の男の子と女の子の二人だけが手伝いに来ていた。技術も経営力もない私は失敗ばかり、ベンデドールには売上金を騙し取られ、製品に絵付けする絵描きさんこれまた大酒飲み、毎週支払うお金は全部飲み代に使い果す始末。私と工場の一室で寝起きを共にしていたのだが、遂に堪忍袋の尾が切れて追い出してしまう。
塗装にはエアー・コンプレッサー(空気圧縮機)によるスプレーでの吹き付け塗装法、下塗りを何度も塗り重ね、耐水ペーパーで磨くのである。受け継いだ当初、設備も完全でなくペンキの空き缶を繋ぎ合わせ煙突代わりにし、換気扇には台所用のエザストールを取りつけるが換気が悪く、部屋中もうもうとしていて、マスクを着けて顔中真っ黒になってしまい、シンナーとペンキの匂いの中での作業。結核で倒れるのが先か、金儲けが先かの闘いであった。
さて、絵描き人を追い出したのはよいが、誰か絵付けする人探せねばならぬ。人は日頃熱心に心がけさえしていれば不思議とこうした時、困った時こそ以前よりもっと良いことに巡り逢うものである。 ある人の話しから、最近日本から来たばかりの家族で芸大出の人がいると言う。そんなに遠くない所なので早速訪ねてみると、漆工芸のことにも詳しく蒔絵等の技法も知っていると言う。偶然にしてまたとない人に巡り逢う事が出来た。 こうして新たに専門の絵描きさんを迎え入れたことで、サンパウロ日系商店街のガルボン・ブエノ街の有名店「カーザ水本」「ロージャ・シャーフローラ」の店頭に我が社の製品が並ぶようになった。